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 目が覚めて、見えたのは白い天井だった。
 どこだろうと思いながらゆうるりと視線を動かすと、航はふと己の左手に己のものではない温度があることに気がついた。

「……えび、はら」

 その手の持ち主は、およそ表情のない顔で航を見つめていた。
 そんな海老原に、航はさっき言えなかったことを今度こそ言ってやる。すると、温度のなかった表情にサッと怒りの色が滲んで、航は何故だろうと内心首を傾げた。




 ――だが。

 

「死ぬんだって?」

 

 そう言われて、自分の周りの時間が一瞬止まった。

 

「医者に聞いた。お前の内臓、まともなのがほとんどないんだって?悪性の腫瘍だらけで」

 普段なら絶対にしないような表情と声色で、何時にない饒舌さで海老原は話し続けた。

「で、あと3ヶ月持てばいい方だって?」

「…海老原」

「ハッ、笑えるぜ。お前、ずいぶん前に知ってたんだってな。1年前ならまだ助かったのにってあの医者言ってたぜ」

 そう言いながら、海老原は握っていた航の手をぎりぎりと強く握り締めた。
 あまりの強さに航が痛みで顔を顰めても、それでも海老原は力を弱めようとはしなかった。

「……大したもんだよ、航。この俺を、2年も騙し続けるなんて」

「ちが…」

「違わねえだろ?お前、知ってて俺の作った朝飯も夕飯も食ってたんだから」

 ひゅっと息を呑む。

「でもいい心がけだったぜ、航。お前は人殺しなんだから、俺に殺されたって文句言えねえだろう?」

 ギリギリとまるで骨を折るつもりのような強さで航の腕を絞め上げながら、海老原は壮絶な笑みをその顔に浮かべて見せた。
 その表情に、航はそんな自分が途方もなく愚かだと思いながらも、それでも心から海老原の笑みに見惚れた。
 掠めるしかできなかった海老原の本質をまざまざと見せ付けられているという事実に、もしかしたら狂喜すらしているのかもしれない。
 いつもの穏やかな顔からは想像もできない激しさは、やはり背で感じたそれよりずっと鮮烈だったと。

「…ごめんな、海老原」

「…何?」

「ごめんなさいって…ずっと、そう言いたかった。許してもらえないって分かってるけど、謝りたかった」

 そうだ。
 誰にでもなく言っていた言葉は、本当は海老原に捧げたかったものだった。
 でもそれを言えば何もかもがお終いだと知っていたから、航は卑怯だと知りながらずっと黙っていたのだ。

「…海老原のそばにいたかったから、どうしても、言えなかった」

 そう言って、航はゆるりと微笑んだ。

 

 色のない顔に浮かべた笑みは、どこまでも現実味が欠けていたのを航は知らない。

 

「……誰より憎かったよ、お前が」

「…うん」

「お前が妹を殺したって知った日から、世界中の誰より、殺してやりたいほど憎かった」

「……うん」

「なのに俺は……っ」

 そう言って、海老原は航を抱きしめた。
 己を抱きしめる海老原の体が微かに震えていて、航はほとんど無意識に口を開く。
 大丈夫だよ、海老原、と。
 1年前から変わらない、まるで口癖のような言葉を。
 いつものように。

「…あと、少しだから」

 心の中で続けていた言葉を、今初めて、声に出して。

 

「俺がお前の前から、消えてやれるまで」

 

 そう言って静かに微笑んだ航の顔は、およそ生きているとは思えないほど、遠かった。
 それは多分、死が近付いた人間だけができる表情なのかもしれない。
 その笑みに海老原がひゅっと息を呑んだことにも気付かず、航は何度も「大丈夫だよ」と繰り返した。



 ――もしかしたら、これで楽になれると、思っていたのかもしれなかった。
 毒だと知ってからの食事は、まるで砂を噛んでいるように味がしなかったこととか。
 海老原の笑みに怯えそうになる自分を叱咤し続けていたこととか。
 己を憎んでいる男を、それでも愛してしまっていたこととか。
 そういう、日に日に神経が殺ぎ落とされていく日々を、これで終えることができると。

 でも、それ以上に。

 やはり、海老原との生活は幸せだったのだと航は思わずにはいられない。

 海老原と過ごした2年は、多分今まで生きてきた20年で一番幸せだったし、それに。
 たとえ嘘でも、たとえそれが航の命を削るためのものでも、綺麗な笑みと、毎日用意されていたご飯は航が知った初めての温かさだったから。

 だから。

 そんな、どこまでも優しい時間としか言いようのない日々をくれた海老原になら、もう使い道のない己の身体で良ければ、いくらでも差し出そうと思った。

 

 ――でも、でも、最後に。
 最後だから、海老原。
 一つだけ、聞いて欲しい願いがある。

 

「…海老原、いっこだけ、頼んでもいいかな」

 航の肩に顔を埋めたままの海老原に、航はそう言った。
 だが、海老原は顔を上げようとはせず、強い力で航を抱きしめたままで。
 航はそんな海老原の髪をゆるく撫ぜながら、静かに口を開いた。




「――俺が死んだら、」








 時々でいいから、俺のこと、思い出して。







 言い終えた途端、肩の重みが急に消えて、代わりに物凄い力で首を絞められた。
 目を見開いて真上にある海老原の顔を見上げれば、いつものように何の感情も伺えない海老原の顔があって。
 だが、航には何故か海老原が今にも泣きそうに見えた。

「…お、前に、ころして、もらえるなら、それが一番いい、んだ」

 苦しさで途切れ途切れになる声を何とか繋げながら、航はそれでも静かに微笑んだ。



「お前が、終わらせてくれる、なら」

 

 そう言って、航はゆっくりと目を閉じた。

 意識を失う寸前に聞こえたのは、血を吐くような慟哭だったかもしれない。

 

 

 






 航が死んだのは、それから数週間が経った日の朝だった。
 

 ただ眠りについただけのような、穏やかな最期だった。




















                           
---- To be continued to the other side story. 



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