すべて、己が、奪った。己のあまりに傲慢な言葉のせいで、悠は、全てを捨てたのだ。
 あの子は、感情を自ら忘れてしまった。子供はもはや感情を表に出すことができなくなって、いつの間にか、自分自身の感情を呼び起こすことさえ忘れてしまった。

「馬鹿だね、嶺」

「…え?」

 不意に聞こえてきた来栖の声に、嶺はハッと我に返る。振り向くと、来栖が苦く笑いながら、居間のドアに寄りかかっていた。

「嶺、今自分がどんな顔しているか分かってる?」

「ど、んな、って」

 

「今すぐにでも、泣きそうな顔してる」

 

「あの子、好きなんだろう?」

「ちが・・・」

「ならどうしてそんな顔してる?僕は他の男にそんな顔する男となんてもう付き合えないよ」

「あきら、さん?」

「ったく…往生際が悪い!君はあの子を愛してるんだよ!」

「…っっ」

 ――悠を、愛したのかどうかなんて知らない。けれど、自分の体に広がるあまりに大きな喪失感は、来栖がどれだけ愛しくても、けして埋めることはできないことだけは嶺は確かに知っていたのだ。
 この8年ずっと嶺の体に巣食っていた飢えとは違う、そのあまりに大きすぎる喪失は。

「遅かったんだね、俺は」

 ぽつりと、来栖がそう呟く。それに違うと叫びたいのに、嶺はそう叫ぶことができなかった。
 来栖に誰かを愛することを教えてもらって、それから来栖のせいで誰も愛せなくなって。
 だが、確かに、そんな嶺をまた人を愛せるようにしてくれたのは悠だ。
 あれが愛なのか何なのか今でも分からないでいる愚かな自分でも、悠をけして傷つけたくないと思っていることだけは確かなのだ。
 自分のせいで感情を忘れた子供を、もう二度と傷つけたくはないと。

「…じゃあね」

 そう言って嶺の前を通り過ぎる来栖の腕を掴むのを、ギリギリのところで堪えた。
 来栖を愛している。どうしようもなくこの年上の男を愛しているのに、悠を傷つけることはもうできなかった。
 悠が傷つくなら、自分の中に残る来栖への恋情の残り火は、きっと消してしまえる。
 何故か、確信のようにそう思った。

 

 

「ユウ!」

 悠の部屋のドアは、相変わらず鍵がかかっていなかった。
 何時来るか分からない己のために、いつでも鍵は開けておくと言っていた悠の言葉がどんなに温かかったか、嶺は今更ながらやっと気がつく。

「…先生?どうしたの?」

 突然現れた嶺にも、悠はゆるく微笑むだけだった。
 どうして、これがただの仮面でしかないと気づけなかったのだろう。己より8つも下の子供に、一体自分はどれほどの苦痛を強いてきたのだろう。
 あまりに目の前の小さな存在が可哀相で、そして愛しくて、嶺は何故か泣きそうになった。
 嶺自身、泣くことを忘れて8年が経つ。なのに、こうして今にも泣きそうな自分がいる。
 もう、いっそこのまま、悠を抱きつぶしてしまいたかった。

「お前が好きだよ、ユウ」

 多分、悠と出会って、今ほど真摯に悠と向き合ったことはないと嶺は思う。
 一体、この3年という年月で、自分はこの子供からどれくらいのものを奪ったのかと、嶺は己の愚かさに自分を殺したくなる。
 ――そしてやはり、悠は嶺の言葉に何の反応もしない。
 そのことに、自分の犯した罪はどれほどのものだろうと泣きそうになりながら、嶺は悠を抱きしめた。

 そんな嶺を、悠は不思議な気持ちで見ていた。
 どうしたんだろう、先生、と。
 だから。

「なんで、お芝居してんの?」

 と、問うた。
 すると嶺は大きく目を見開いて、悠はそれすら不思議でならない。すべてを見せておいて、何を今更こんな芝居を続ける必要があるんだろうと。

「もう、そういうのしなくていいよ?」

「ユ、ウ…」

「だって、先生の言うことは、ぜんぶ嘘でしょう?」


 淡く微笑む悠は、やはり、どこまでもかなしい。


 ――俺が壊した。
 俺が、あんなに鮮やかに笑っていた悠の綺麗すぎる心を、木っ端微塵に壊してしまった。


「…それでも、俺はお前を好きだよ、ユウ。もうずっと誰かを好きになることなんて忘れてたから、あの人に教えてもらうまで気づかなかった」

「…もういいから、せんせ、早くあの人のとこに戻って」

「あの人とは、別れた」

「……え?」

「俺は、お前を好きだから」

 そう言って、嶺は悠をもう一度抱きしめた。
 ――その言葉は、これまで聞いた嶺のどんな言葉より、温かくて、切実だったかもしれない。
 今にも泣きそうな顔で囁く嶺など、悠はこれまで見たことはなかったから。

 でも、悠は、信じなかった。
 もう、信じるつもりも、なかった。
 信じて、愛して、そして心臓がバラバラにされたと思うぐらい傷ついて。傷つくことすら忘れて。
 もう、悠は誰を信じるつもりも、誰も愛するつもりもなかった。
 一生。

「俺は、もう誰も好きにならないよ」

「…いいんだ、ユウ。俺が、その分、お前を好きでいるから」

 そう言って、悠を抱きしめる腕は、相も変わらずあたたかい。
 けれど、ああ、これも嘘なんだろうと、悠は思う。
 好きだなんて言葉、もう、二度と聴きたくなかった。

「やっぱり嘘つきだね、先生は」

 そう言って、悠は淡く笑う。
 そのどこまでも儚い笑みに、嶺は、一生この人間を愛そうと思った。
 笑うことも泣くことも忘れたこの可哀想な子供が、すべてを思い出すまで、ずっと愛し続けようと思った。

 ずっと。

 

 

                                                  End.

  



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