「…僕以外に、付き合っている人がいるだろう?」

 ほとんど過ごすことのない自分のマンションで、来栖にどこか呆れたようにそう言われた時、嶺は思っていたより驚かなかった。ただ、とうとう来たかと思っただけで。

 今更だが、今の状況を二股と言うんだろうと嶺は思っている。
 悠には、これまで何度もしてきたでしょうとでも言われるかもしれないが、嶺にしてみれば、これが本当の二股なのだ。
 来栖がいない頃は、嶺は悠以外の誰かを抱く時、最低過ぎることに相手の名前すら覚える気はなかった。一晩、来栖の不在の飢えを少しでも満たすことができればいいと、ただそれだけしか頭になかったから。
 今思えば、悠とするには酷すぎるセックスだからこそ、嶺は悠以外の何人もを抱いていたのかもしれない。悠だけは悠を思って抱こうと思えたから、来栖の飢えを満たすためのセックスは悠以外の誰かとしようと。
 だが、そう思えるほどには悠を愛していたことを、何故か、嶺自身今の今でも分からないでいる。
 あまりに切実に「好きだ」と言った子供が可哀相だから付き合っているのだと、今でも本気で考えているのだ。そして、いざ付き合ってみれば、思いのほか心地がよくて、溺れてしまっただけだと。
 けしてあの子供と己の関係は、おままごとの恋人関係以外の何物でもないのだと。

 ならどうして別れられないのかという問いに、嶺は決して答えることはできないというのに。

 ――だから、そんな関係が、そう長く続くはずはなかったのだ。
 そして、来栖を愛して、悠に癒される。そんな、あまりに心地いい関係がずっと続くはずはないことに、嶺も気がついていた。
 ただ、その終わりが思ったよりも少し早かったというだけで。

「…うん、いる」

「……付き合ってどのくらいになるの?」

「3年、かな」

「年は」

「…ハタチ」

 そう言うと、来栖は少し目を見開いて、それからハアと大きくため息をついた。

「……なら、僕とは別れなきゃ駄目だろ」

「嫌だよ」

「…嶺」

 腰掛けていたソファから立ち上がり、来栖が立っている居間のドアの傍まで行く。多分、思っていたより怒りが表に出ていてしまっていたのかもしれない。来栖は、どこか気圧されてしまったかのように動かなかった。

「絶対に、あなたとは別れない」

 いっそきっぱりとそう言い捨てた嶺に、来栖は小さく息を呑む。
 いつも捉えどころのない笑みを浮かべる嶺が、何時になく真摯な表情をして来栖を射抜くように見つめたせいで、来栖は一瞬言葉を失くしたようだった。だが。

「…傷つけちゃ、駄目だ」

 小さく、本当に小さな声でそう呟いて、来栖は目を伏せる。だが、嶺は全く表情を変えることなく、クイと来栖の顎を掴んで持ち上げた。

「俺は貴方しか愛してない。たくさんの男も女も抱いた。でも、抱いてるのはあなただと思っていつも抱いてた。あなた以外の人間のことを思って誰かを抱いたことなんて、一度もない」

 いつもだ。
 誇張でも何でもなく、嶺は誰を抱くときも、相手はすべて来栖だと思って抱いてきた。だから、朝起きた時に隣にいるのが来栖でない現実を見るのがどうしても嫌で、絶対に夜が明ける前にその場を離れた。
 この8年のすべてが、来栖のせいで狂っていた。隣に存在しない来栖を中心に、嶺の世界は回っていたのだ。
 ――なのに、やっと己の腕の中に戻ってきたというのに、離れることなど、許さない。
 絶対に、許さない。

「あなた以外、俺はいらない」

 だが、許さないと思いながらも、その口調は、どこまでも縋るようなものでしかなかったように思う。
 そう、ただ、いなくならないでほしいと。
 自分から離れていかないでと、その一心で。


 ――カタリと、物音がした。


 嶺は、忘れていたのだ。
 日曜は、悠が嶺の家に来る約束だったことを。


 バラバラと、いろいろなものが落ちる音がした。その音に、嶺は驚いて玄関の方を振り向く。
 そこには、呆然と佇んでいる悠が、いた。

「ユ、ウ…」

「…ハハ、ご、めん、落としちゃった、……あ、これカレーの材料なんだけど」

「……ユウ」

 ほとんど無意識で、嶺はゆっくりと悠に近寄る。だが、悠の肩に触れようとした嶺の手を、悠はパシッと払いのけた。そのことに、嶺は自分でも訳が分からないほど動揺した。

「…わ、かってた。わかってたよ、先生が俺を、好きでも、なんでもないこと。でも、なんで?な、んで、俺の目の前で、こんなことする?なんで俺に、こんなもの、聞かせる…?」

 そう言ったかと思うと、悠は、ツ、と涙を流した。
 その涙に、嶺は思わずひゅっと息を呑む。そして、愚かにも、嶺は初めて気がついたのだ。

 悠はけして、嶺の前では笑み以外の感情を見せたことがなかったことに。

 ――どのくらいの沈黙が続いたのか。
 数秒か、数分か。それを認識することを嶺ができないでいるうちに、悠は床に散らばった食材を拾い始めた。黙々と、その場に転がった色とりどりの野菜や果物を、悠は手に持っているビニール袋の中に詰め込んでゆく。
 その間、嶺も来栖も、全く動くことができなかった。ただただ、呆然と見ていただけだった。

 すべて袋に入れ終えたかと思うと、悠は静かに立ち上がった。

「…はい、これ」

 悠に差し出された袋を、嶺は、ほとんど無意識で受け取ったように思う。手を出されたから自分も手を出した、それはまるで反射のようなものだったかもしれない。
 だが、そんな嶺に、悠は静かに微笑んだ。
 それは、嶺が確かに溺れていた、聖母のような淡い笑みだった。

「…俺は作ってあげられないから、その人に教えてもらって、先生が作るんだよ?」

「え…?」

「ごはん、ちゃんと食べなね」

「……ユウ?」

「ばいばい」

 そう言って、悠は、小さく笑った。
 ――その笑みに、嶺は、気づいた。静かにドアを開けて出て行く悠の背中を呆然と見ながら、嶺はあまりに愚かなことに、やっと気がついたのだ。

 いつもかなしそうに笑んでいた悠は、本当はいつも笑んでなどいなかった。いや、確かに笑ってはいたんだろう。だが、それは、悠の本当の笑みではけしてなかった。

『先生、俺今日こそ歩ける??』

 まだ悠と嶺が付き合っていなかった頃、悠が見せていた笑みを嶺は今になって思い出す。
 なんて鮮やかな笑みだろう。
 なんて明るい笑みだろう。

『おかえり』

 そして、名も知らぬ人間を抱いて帰ってきた嶺を、そう迎えた悠の笑みは。

 

 なんて、かなしい笑みだろう。

 

 




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