忘れられない人。
 そんな陳腐な言葉が似合う人間が、嶺には一人いる。17の時から付き合い始めて、20歳になった時に呆気なく捨てられた、年上の男。
 実は、20歳からの口にするのもおぞましいほどの自分の乱行が、そのたった一人の人間のせいだと知ったら、当のその人はどう思うだろうかと嶺は何度も考えた。父親の部下だった年上の人は、冷たく整った容貌とは裏腹に、ひどく情の深い人だったから。
 だが、その情の深い人にこっぴどく振られたのは紛れもなく自分自身なのだから、そんな疑問など意味がない。それを知っているのに、たくさんの人間を手酷く捨てては同じことを考える自分は、きっと一生あの人を忘れることはできないんだろうと嶺は思っていた。
 そんな、多分人としてどうしようもなかった己を、名も知らぬ母親のように優しく癒してくれたのは嶺より8つも下の子供だというのだから救いようがない。だが、あの子供は、母親の愛というものを知らない嶺にとって確かな愛情をくれた唯一人の人間で、たとえ他の誰を抱いても、絶対にあの子供の元に帰りたいと思うほどには、悠は嶺を溺れさせた。
 来栖(クルス)のせいで、誰を抱いても、何人を抱いても飢えが止むことはない。だが、たとえどんなに飢えていても、自分には帰れる場所が、癒してくれる人間がいるのだという事実は、確かに一瞬でも来栖を忘れさせてくれた。
 だから、もうそろそろ、止めようと思っていた。
 あの子供は、付き合うときに嶺が言った言葉を健気にもずっと守って、悠ではない誰かを抱いてきた嶺に微笑みこそすれけして詰ることも嘆くこともない。
 そんなあまりに哀れで健気な様に、もういいだろうと思ったのだ。
 どうせ、来栖のせいで空いた穴は一生埋まらないし、この飢えも一生止むことはない。誰を抱いてもそれが変わらないなら、もう悠以外誰も抱かなくてもいいだろうと。
 本気で、そう思っていたのだ。

 

「久しぶりだね、嶺」

 なのに、目の前で微笑むのは、8年前己を捨てた人間。
 どんなに嫌だと叫んでも、その美しい笑みで嶺から離れていった、年上の人。

「な、んで」

「…イギリスに、行っていた。君と別れて、つい1週間前まで」

「な…!?」

「……謝りたくて。君がとても傷ついていたと、阿久津さんに聞いて。…あの時、君は若かったろう?だから、すぐに僕のことなんて忘れられると思って、酷い別れ方を、してしまったから」

「な、にを今更…」

 どれだけ、傷ついたと思っている?
 中学の頃から、口説いて口説いて口説きまくって、ようやく手に入れたと思った初恋の人に、「別れよう」のたった一言で捨てられて。
 気づいたときには、もう来栖は己の傍にはいなくて。

「…君を、愛して、た」

 来栖から目を背けていた嶺は、その言葉にひゅっと息を呑む。そして来栖を見遣れば、あの、けして泣き顔など見せることのなかった男が、確かに涙を流していた。

「でも、でも!8年待っていてなんて、どうしたら言える?…そんなこと、僕にはできなかった…っ」

「来…栖、さん」

「わか、ってる。今更何を言っても謝罪になんてならないことも。…でも、ごめん。本当に、ごめん…」

 そう言って、一筋涙を流した来栖を、嶺は思わず抱きしめた。
 そんなこと、するつもりはなかった。8年も経った今頃現れて謝られてもこの8年は取り戻すことはできないんだと、一発殴ってやろうというぐらいの気持ちで、呼び出しに応じたのだ。
 ――だが、顔を見て。
 声を聞いて、相変わらず冷たそうでいて柔らかな笑みを見て。
 もう、限界だった。
 だって、仕方がない。忘れられなかったのだ。腕の中にいる人間ただ一人を思って、毎晩色んな人間を抱いていたのだ。
 8年の飢えを埋めてくれるただ一人の人間を、ようやく腕の中に取り戻せたのだ。

 堪らなくなって、噛み付けるように口付ける。
 触れた唇は、8年前と変わらず柔らかくて、なのに冷たくて。その何もかもが、どうしようもなく愛しかった。

「…ハ…ッ」

 口づけの途中で苦しそうに喘ぐ癖もそのままで、そして、思わずと言ったように己の腕に縋ってくる手すら変わっていなくて。
 ――欲しい。
 欲しくて、堪らない。
 はやく、飢えを、満たしたい。

「…抱かせて」

 設えたように、呼び出されたここは、来栖が泊まるホテルの一室。
 だが、ドアの先にあるだろう寝室に行くことすら煩わしくて、嶺は、その場にあったソファの上に来栖を押し倒した。

「ン…っ、」

 口付けたままネクタイを抜き、シャツのボタンがはじけ飛ぶぐらいの勢いで前を寛がせる。シャツの間から差し込んだ手が胸の尖りを掠めると、来栖は小さく声を上げた。

 

 それから、野獣のように交わって、嶺自身ですら、何をどうやって来栖の中に入っていったのか覚えていない。気づいたときには狂ったように腰を振っていて、突き上げる度に声を上げる来栖にどうしようもなく欲情した。
 けれど。

『これで、俺の飢えは止む』

 ――そう、心のどこかで思ったことだけは、確かに覚えている。

 

 その日を皮切りに、嶺は、それまでの乱行が嘘のように止んだ。
 誰も誘うこともなく、誰の誘いに乗ることもなく、まるでそれまでの嶺は一体誰だったんだと誰しもが思わずにはいられないほど、嶺はピタリと誰も抱かなくなった。
 何故なら、もう必要がないからだ。
 どうしようもなく飢えていたために、誰彼構わず抱いていた。だが、もう嶺は飢えることはない。嶺を飢えさせ、そして嶺の飢えを満たしてくれるただ一人の人間が、もう嶺にはいるからだ。

 来栖は、嶺と会った翌日には、不動産屋に行ってマンションを借りた。その引越しを嶺は当然のように手伝い、家具を運びながら途中で抱き合ったりして、嶺にとってこの8年でもっとも満たされている毎日が続いていた。
 ――愛しかった。
 誰より、愛しくて堪らなかった。
 目が覚めればいなくなるかもしれないと子供のような不安を抱えて、嶺は必ず来栖を抱きしめて眠った。そんな嶺を来栖は当たり前のように許して、朝は必ず嶺よりも先に起きて、嶺のためだけに微笑んだ。

  

 夜、8年という歳月を取り戻すかのような激しいセックスのせいで、来栖は必ず嶺より先に眠る。そんな来栖がどこまでも愛しくて、嶺は毛布ごと来栖をくるんで抱きしめて眠るのがここ最近の癖だった。
 そして、あたたかな体温を感じながら、目を閉じる。
 ――だが。

『おやすみなさい、先生』

 ハッと、目を開ける。
 ドッ、ドッ、と心臓が鳴り始め、嶺は来栖を起こさないようにして上半身を起こし、静かにベッドから降りた。

「…ユウ」

 しまったと、嶺は内心舌打ちした。
 気づけば、もう悠の家に10日も行っていない。あの子供のことだ、相変わらず自分が色々な人間の元を渡り歩いているのだろうと思っているのだろうが、それでも10日も日を空けたのは初めてだった。

 急いで服を着て、「また明日来る」とメモを残し、部屋を出る。
 エレベーターから降り、走りながら見た腕時計は、午後11時を指していた。――今ならまだ起きているだろう。そう心の中で独り言ちて、嶺は通りでタクシーを止めた。

「急いで」

「は、はい」

 運転手を急かし、座席に深く座る。
 あの子供が悲しんでなければいいとそれだけを願いながら、嶺は窓の外を一瞬で過ぎてゆく風景を見た。

 どうして自分が急いでいるのか、嶺自身全く気づくことなく。

  

 




HOME  BACK  TOP  NEXT

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送