Pieta

 

 

 


 

 最高の男で、最低の男。
 周りは、棗田悠(ナツメダユウ)の3年来の恋人をそのどちらかで評した。そしてそれを悠自身否定するつもりはないし、することもできない。なぜなら、確かにその通りだからだ。
 恐ろしく蠱惑的な笑みで、誰彼構わず魅了しては、男女構わずベッドに入る。そしてその翌日には、まるで二人の間には何もなかったかのように笑って去る。そこには何の罪悪感もない。それが悠の恋人――阿久津嶺(アクツリョウ)という男だった。
 恋人ではあっても、嶺のその悪癖とでも言うべき夜遊びは止むことはない。悠がいようがいまいが関係なく、嶺は気に入れば誰とでも口付けるし、誰とでもセックスをする。
 けれど、1日以上、嶺と一緒にいることができたのは、悠だけだ。悠以外の誰もが、どんなに美しい男でも女でも、嶺との関係は夜が明ければ終わる。それでも嶺と一晩の関係を持とうとする人間はけして後を絶たないが、そのことだけが、悠が縋ることのできるすべてなのだ。
 たとえ自分以外の誰とどこで何をしても、最後には自分の元へと帰ってきてくれるという事実だけが、悠の、最後の砦だった。

 

「ただいまー」

「おかえり」

「ん〜イー匂い!今日は秋刀魚だ〜」

 嬉しそうな顔でキッチンに入ってきた嶺に、悠も同じような笑みを返す。だが、悠の前まで来た嶺から少しではない香水が香る。その香りに悠は思わず顔を顰めてしまい、焦ったように表情を元に戻したが、どうやら間に合わなかったようだった。

「ごめーーん!すぐフロ入ってくるからね」

 そう言ってチュと頬に軽くキスをして嶺はキッチンから出てゆく。見ていないようでいて、いつもすべてを見透かしている嶺は、悠の感情の機微にもしかしたら悠自身より敏感かもしれない。
 口付けられた頬に手を当てながら、ついつい顔が赤くなる自分を意識する。付き合って3年になるというのに、嶺のスキンシップにけして慣れることはない自分が不思議だった。
 フウと息をつき、グリルの中の秋刀魚を見る。そして、今日は誰のところにいたんだろうとこの1年変わらず思うことを、性懲りもなく今日も考えた。考えても仕方がないのだと分かっていても、どうしても考えずにはいられない。

『もう、病気のようなもんなんだ』

 悠が嶺に好きだと告げたとき、嶺はそう言って困ったように微笑んだ。そして、だから悠と付き合っても、悠を悲しませるだけだよと。
 だが、それでもいいから付き合ってとせがんだのは悠だ。右足を骨折した悠を担当してくれた嶺のやさしさに、悠は惹かれずにはいられなかったから。
 そんな悠に嶺はやはりどこか辛そうな笑みを浮かべて、そして、いいよと、言ってくれた。
 同時に、悠と付き合っても、悠以外の人間と自分は関係を持つだろうとも。

 だから、悠はたとえどんなに傷ついても、どんなに泣き叫びたくても、けしてそうすることはない。
 そして、それは嶺の前でだけではないのだ。悠とて、もう20歳になる。上辺だけで取り繕ったとしても、いつか限界がきてしまうことぐらい分かっていた。
 だとすれば、最初から、傷つかないようにするしかない。
 泣くことも、悲しむことも、忘れるしかない。傷つくことすら、忘れるしかなかった。
 他の誰かと口づけた唇で悠に口づけても。他の誰かに囁いた言葉を悠に囁いても。そのことを嬉しいと思うのと同じぐらい、悲しいと思っても。
 悠は、穏やかに微笑んで、嶺を許すのだ。

 ――それが、もはや棗田悠という人間そのものを、じわじわと壊していってしまっていることに気づかないふりをして。



「お待たせ〜、ごはんできた??」

 嶺の声に、悠はハッと我に返る。そしてそのまま後ろから腕を回されて、香ってきた石鹸の香りに悠は何故か体を強張らせた。

「ん?どうした?」

「…え?あ、な、なんでもない。――あ、秋刀魚焼けたみたい」

 背中に嶺をくっつけたまま、悠はグリルの火を止め、蓋を開ける。試しにと思って秋刀魚の上につけたタレのいい香りがキッチンに漂い、後ろで嶺が「うまそ〜」と独り言ちていた。
 そんな嶺に、悠は思わず笑みが浮かぶ。
 そうだ、この穏やかで幸せな生活が続くのなら、己の感情など忘れてしまってもいい。
 隣で嶺が笑って、それに自分も笑い返して。それ以上の幸せが、どこにあると言うんだろう。

「先生、さっさと離れて。そしてご飯盛ってください」

 出会った時から、悠にとっての嶺の呼称は「先生」から変わることはない。そして、そのことを嶺に咎められたことも、変えるように言われたこともない。
 その事実が、嶺が自分との関係を恋人であるとは思っていないことを幾度となく悠に思い知らせたが、そのことに傷つくことももう忘れた。
 感情など、麻痺してしまえばどうとでもなる。
 そんな、一生知らなくてもいいことを知ってしまったことに悠が気づくことはきっとないのだろう。

「離れたくない〜って言いたいとこだけど、秋刀魚が冷めるしねー。しょーがない、離れてあげよう」

「もー…」

 あははと軽やかに笑いながら、嶺は言われたとおりに悠から離れる。振り向いた先にあった嶺の顔は何時になく甘い表情をしていて、そんな嶺に顔が赤くなるのを何とか押しとどめて悠はグリルに向き直った。当然嶺はそんな悠に気づいていて、くすくすと小さく笑みを零していたが。
 ――と、そこに電話が鳴った。基本的に不精な嶺の、携帯を買った当時のままの単純なコール音。
 その着信音に、悠はそれまでの浮かれていた気分が一気に冷める。
 今日はもう出かけることはないだろう。だが、この電話の主は、明日か明後日の嶺の相手になることはほぼ間違いないことを、悠はよく知っている。

「――もしもーし」

 悠が分かっていることを知っているだろうに、それでも嶺は申し訳なさそうな笑みを悠によこして携帯を取る。何故か、悠がいるときにかかってきた電話は、嶺はまるで義務であるかのように悠の顔を見ながら会話をする。そして、その会話は30秒を超えることはほとんどないほど短い。
 それが嶺なりの詫びのようなものであることは悠にも理解できて、それを止めるように言ったことは悠は一度もない。むしろ、そうしてもらえることで、嶺が誰かと会ったその次の日には自分の元に帰ってきてくれるのだと感じることができるのだから。
 ――けれど。

「…ル、ス、さん?」

 呆然。もしくは愕然とでも言うような、そんな表情を嶺はしていた。
 そんな嶺の表情を、悠はこれまで一度も見たことはない。悠の知る限り、領はいつもにこやかに、そして穏やかに笑っていたから。
 そして、嶺は携帯を耳に当てたまま、ふらりと部屋を出て行った。
 止めることは、悠にはできなかった。
 なぜなら、もう、嶺は悠を見ていなかったから。

 悠を、もう見ていなかったから。

 

「…秋刀魚、冷めちゃうな」

 皿に乗せた秋刀魚からは、もうさっきのような芳しい匂いはしない。
 きっと、あの時食べたら美味しかったろうに。
 そう思いながら、悠は秋刀魚を皿ごとラップに包み、テーブルの端に寄せる。

「今のうちに、洗い物でもしよ」

 早めに洗ってしまえば、焦げ付きも油も取れやすい。それに、まだ鉄板の熱も冷めていないだろうから余計汚れは取れやすいだろう。

 ごしごしと、十分に泡立てたスポンジで焼き網を擦る。白かった泡がどんどん茶色く濁っていって、終いには悠の指まで黒く汚していった。
 でも、そんなことなど、どうでもよかった。
 いや違う。悠にとって、もはや何もかもがどうでもいいのだ。

 傷つかない。驚かない。叫ばない。泣かない。悲しまない。怒らない。

 それを、この3年繰り返し繰り返し心の中で唱えて、今では、どんなことがあっても悠は何も感じずにいられる。
 たとえ、たった今嶺が見せた光景が、これまで悠を傷つけた全てを合わせても足りないほどに何もかもを壊すものかもしれないと、予感しても。
 それでも、悠は何も、感じない。

 だってそうだろう?

 嶺と一緒にいられるなら、自分など、どうだっていいのだから。

 

  



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