王子様の恋人D





ベター・ハーフ 


 

「あーー!おい一木!!」

「……つっちー!?」

 天下の公道でやたらと大声で名前が呼ばれ、若干びびりながら後ろを振り向くとそこには高校の副担任がいた。正確には元副担任とでも言うべきなんだろうが、俺はまだ転校の事実にすら実感が沸いていない。が、そんな状態の俺とは違い、今俺の方に走ってきている副担任は俺の状況をよおおく知っているようだった。

「ハア、ハア……年かな……たったこれぐらいで息切れが…」

「まだ26だろ?どーせ昨日ヤりすぎたとかじゃねえの?」

「…ハ?」

「ああ、つっちーの場合だとヤラれすぎってことになんのか」

 見る見るうちに顔を真っ赤に染めていく副担任に、やっぱりこいつをからかうのはおもしろいと思う。
 目の前の副担任――土屋数人は、恋人が男であることをクラスの全員に知られている26には思えない童顔の男だが、こんなんで一体どうやって社会を生き抜いてきたんだろうかと思わずにはいられない、馬鹿と天才は紙一重を地で行くような男だった。
 与党野党の意味を知らず、降水確率は雨の量のことだろうと20年間勘違いし、織田信長と聞いて「どっかの歌手か?」などと言いくさったこの男は、英語から果てはハングルまで、あわせて9ヶ国の外国語を操れる。高校も一芸卒業みたいなもんだしなーとこの副担任はけらけら笑っていたが、当時のこいつの担任の苦労が忍ばれるようだった。

「うっ、うるさい!!そんなことより、お前いきなり転校なんてどうしたんだ?しかも光来なんてお前、羊の群れに狼を放り込むようなもんじゃないか」

 …バカ正直というか歯に衣着せぬというか。そこがこの教師の美徳ではあるんだろうが。

「別に何もしねーよ。…つーか、できねえって」

 あんな、羊の皮を被った怪力狼を地で行く男がトップの学校の生徒が、ただの羊の群れであるはずもない。脳みその構造が根本から違うということだけは否応なしに理解済みだ。
 その怪力に加え変態な狼を思い出して、思わず背筋にゾゾと寒気が走る。だが、寒気を走らせている暇など俺にはないのだ。
 ――明日に婚姻の儀とやらを控えているらしい今日、俺は何が何でも逃げなくてはならない。
 婚姻の儀からも、とんでもなくでかい家からも、そして、あの変態王子からも。
 …しかし、今のところ有効な手段が全く思い浮かばない。自宅に戻れないことは、3日前にそうしようとしてとっ捕まったことから分かっているし、かと言って、下手すれば世界中にスパイでも飛ばしてそうな氷依から逃げられるぐらいの金も持ち合わせていない。

「おーい、どーした一木?ずいぶん深刻そうな顔してるぞ?」

「いいからほっとい…」

 てくれと言い終える前に、俺はぶんと土屋の方を向いた。
 …いるじゃねえかここに。絶好のカモが。

「つっちー!」

「へっ?」

 若干怯え気味の土屋に構わず、俺はガシッと強くその両手を掴む。そして。

「俺を明日の夜までお前んち置いてくれ!」



 

「…で?」

「う…。だ、だって可哀相だろ?恋人でもない人と結婚させられそうだなんて」

「それがお前と何の関係がある?」

「関係…関係はほら、俺はこいつの担任だし」

「副担だろうが」

「ぐっ。で、でも」

 ソファに座りながら、俺は目の前で繰り広げられる結果のミエミエな応酬を聞いていた。
 なんというか、たったの2、3分でこの二人の力関係が手に取るように分かる。明らかな亭主関白。それも土屋夫婦(と言っていいのか未だに分からないが)について実しやかに囁かれる噂話を聞いた限り、このやたらに美形な旦那は傲岸不遜を絵に描いたような男らしかった。別にどこと言って褒めるところはない副担任だが、何故か男子生徒にはやたらと構われる節のある土屋が、クラスのほとんどの男に毎日のように気の毒がられていたのを俺は知っている。
 そして、この夫婦をよく知る奴に言わせれば、その事実をこの傲慢亭主が相当気に入っていないということも。

「おい、18になる野郎が自分の後始末ぐらい自分でつけられねえのか?」

 …なので、一応そんな男の一人でもある俺のことも当然気に入らないだろうことは想像はついていたのだ。

「…すんません。ちょっと込み入った事情があって…」

「それは数人じゃねえと解決できねえ事情か?」

「そう、っすね」

「おい一居!生徒の頼みを聞いてやるのが教師だろ?それに、一木はいつもは物凄くしっかりしてるんだ。そんな奴が頼ってくるぐらいだから相当のことだと思うんだよ。そうだろ?」

 そう言って穏やかな顔を俺に向ける土屋に、俺は柄にもなく少し感動していた。
 普段は男子生徒に絡まれるだけ絡まれて逃げるように教室を去っていく土屋が、こうも教師とはこうあるべきと生徒が願う教師像を持った人間だったとは。

「一木、俺はお前の味方だからな。一居が何と言おうとここに泊まっていいぞ!」

「つっちー…」

「俺の部屋が空いてるからそこで休め。後で布団持ってってやるから」

 に、といつもの屈託のない笑みを浮かべながら、土屋は俺を部屋の一室へ案内してくれた。俺の向かい側に座っていた亭主の今にもブチ切れそうな様子が気にならないでもなかったが、ここまで来たらもう土屋にすべてをまかせるしかない。奴を見ないようにしながら土屋の後に続き、部屋の中に入った時には思わず小さく安堵の息が漏れた。
 案内された部屋は、デスクと書棚そしてソファがあるだけのシンプルな部屋で、空いてるというからには普段ほとんど使っていないのだろう、確かに生活感というものがあまりしない部屋だった。

「そうだ、お前夕飯は食べたか?」

「適当に済ませてきた。…つーか、ほんと悪い、土屋。すげえ迷惑かけた」

「いーよ。お前年の割にしっかりしすぎてるからな。高校生ならこーゆーことの一度や二度あったっていーんだ」

「へえ、つっちーはあったわけ?」

「俺?俺はなあ…こういうことはさすがになかったけど、でも進級がヤバいとかで親が呼び出された回数は2桁だな」

「…一芸卒業ってマジだったのか…」

「まーなー!ってワリ、長話して。すぐ布団持ってくるから」

 そう言ってドタバタと土屋は部屋から出て行き、また別の部屋に入ったのだろう、ドアの開閉の音がかすかに聞こえた。あの様子からすればかなり激しくドアを閉じたように思えるが、どうやらこの部屋の壁は外の音を相当な程度遮断してくれるらしい。マンションに連れて来られた時にはその悪趣味さに体が凍りついたが、中に入ってみれば思いのほかまともで安心した。
 とりあえず土屋が戻るのを待つかと、窓際にあるソファに静かに腰掛ける。そしてふうと息を吐くと、なんとなく、今氷依はどうしているだろうと思った。やはり、俺を探しているんだろうかと。

 ――3日前、俺が家に戻ろうとしてその一歩手前で捕まった時のことだ。
 黒服を着た強面の男たち何人かに有無を言わさず抱えられて氷依の元に連れて行かれ、一言文句でも言ってやろうと氷依に顔を向けたとき、そこにあった表情に俺は思わず息を呑んだ。

『…とても心配したんだよ、ハニー』

 それはひどく大切な、そう、まるで宝物でも失くしたかのような寂しげな顔を氷依はしていて、その表情のまま俺を抱きしめてきた氷依を、俺はその時どうしても拒む気にはなれなかった。

「…怒ってくれればよかったんだ」

 以前見せた、ヤクザですら平伏すような怜悧な表情を顔に乗せて俺を詰ったなら、俺はきっとあの時あんな気持ちにはならなかっただろうし、それに。
 今だって、あの男のことを思ったりしなかった。
 思ったり……。

「………え?」

 ――俺は、今何を考えた?
 何かとてつもなく嫌な言葉を頭に思い描かなかったか?
 思い出そうとするのすら憚られるような、世にも奇妙な単語だの文章だのを。
 …ヤバい。このままでは絶対にヤバいと、俺は頭がクラクラするぐらいぶんぶん頭を横に振る。少し気持ちが悪くなりそうになったぐらいで振るのを止め、こうなったらさっさと寝ようとソファから立ち上がった。
 だが、寝ようにも寝具がない。そういえば土屋が出て行ってからすでに10分近く経っている。何かトラブルでもあったのかもしれないと、様子を見に行くべく俺はガチャリとドアノブを捻った……が、60度ほど捻ったドアノブを掴んだまま俺はカッキリ固まった。
 ドアの向こうから、微かでもなんでもなく、ナニの真っ最中な声がくっきりはっきり聞こえた。
 そして、どうにか手を動かしてドアを引き、もう一度ドアノブを元に位置に戻す。しかし、閉めたにも関わらず相変わらず聞こえてくる声に、俺はぐしゃぐしゃと髪を掻き毟りたくなった。

「…あンのクソ亭主…ぜってーワザとだろう…」

 そうでなければ、こうもタイミング良くあんな声が聞こえてくるものか。大体土屋が部屋を出て行ってから10分しか経っていないのだ。それがなんだって既に『感極まってます』的な声になっているのか。
 答えは一つだ。あの男がどうせあの手この手で土屋をいいようにしたに決まってる。
 俺は別にほかの男どものように、土屋が可哀相だとかそんな亭主とは別れたほうがいいだとか思ったことはなかったが、俺も周りの男どもの意見に諸手を挙げて賛成したい。
 ――が、やはり現代の世にも神はいたらしい。
 ピンポーンと綺麗に鳴り響いたチャイムに、俺は心の底から「ザマアミロ」と思った。しばらくしてから聞こえたダンダンと玄関に向かう大きな足音に、ケケケと内心舌を出す。

「ほんと、あんなのとは別れた方がい…」

 

「ハニーーー!!!」

 



 

「――では、この度はハニーがお世話になりました。このお礼はいつか改めてさせていただきます」

「こちらこそ連絡が遅れて申し訳なかったですね、椋露路さん」

「いいえ。むしろ一居さんのお宅にいらっしゃると聞いて安心しました。ところで、今日は数人さんは…?」

「ああ、ちょっとさっきまで説教してまして」

「そうですか…お互い、良き伴侶を見つけられてよかったですね。――では今日は遅いのでこれで」

「ええ。…そうだ椋露路さん、彼、二度と逃げないように説教しとかないと」

「…ふふ、そうですね」

 じゃ、という声とともに、目の前でバタンとドアが閉じられる。あれほど憎たらしかった傲慢亭主に縋りつきたくなるのを寸でのところで堪え、俺の腰をガッシリと掴んでいる男から目を逸らすようにして俺は反対側を向いた。――が。

「一度目は許したけど二度目はもう許せないよ、ハニー。…帰ったら、僕も君にきつくお仕置きしないとね」

 とかいう、本来の“お仕置き”の意味からはかけ離れているとしか思えない台詞に、俺はぶぶんと首を180度戻して氷依の顔を見る。というか、あいつは”説教”とは言っていたが“お仕置き”とは一言も言ってないだろう。

「4日前ぐらいかな?ハニーが今にも泣きそうになりながら「嫌だ」って僕に言ったモノ、覚えてる?」

「……な!?ちょ、あ、あれ、あれは」

「今日はアレでお仕置きしてあげるよ。ああ、僕はなんて優しいダーリンなんだろうね。お仕置きなのにハニーを気持ち良くしてあげるんだから」

「!!?」

 にこりと相変わらず高貴な笑みを浮かべながら、目の前の王子様はとんでもなくえげつないことを言っているのだと、一体この世の何人が信じるだろう。

 

 

 ――その"お仕置き“とやらが終わった翌朝5時半ごろ。
 俺は、終わったと思った。

 …終わった…俺は、完全に終わった。

 そう心の中で呟き、ガクリと意識を閉ざしたのがその数秒後。
 そして、俺が椋露路氷依とかいう名前の一応人間らしい生命体と婚姻の儀とやらを済ませたのが、その7時間後だった。

 

  

 

                                                   End.



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