薄氷を踏んでいるような今なのだと、凪は小さく呟いた。


「…俺は、日本から逃げてきたから」

 そう静かに微笑んで目を伏せる凪は、いつもの天真爛漫な笑みからは想像もつかないほど儚い。それがあの絵が凪にもたらした何かのせいなのだとは気付いていたが、その何かまでは分からなかった。

「…スイは、ずっと勉強したかったものがあって、それでこっち来たんだ。なのに、俺のせいでずっと時間がかかってる。だから、俺、スイに頼りっきりだったから、路上で絵を描いて、売ってた。…でも、それが、俺が逃げてきた人に見つかって、何回も住む場所変えなきゃなんなくなった」

「…凪」

 名前を呼ぶと、凪は、泣き笑いのような表情をその顔に浮かべた。

「ほ、んとうは、分かってるんだ。このまんまじゃ、スイの邪魔になるだけだから、スイから離れた方がいいって。でも、俺、スイがすげえ好きで、は、離れるなんて、考えただけで吐いたりして」


 その、たどたどしく凪の口から漏れる台詞は、あまりに切なかった。

 俺はこういう性格だから、誰かと本気で愛し合ったこともないし、誰かを本気で愛したこともない。それで別にいいと思っていたし、それにそんな感情理解することすらできなかった。

 だが、俺はこいつらほど優しくて、お互いがお互いを思っている二人を他に知らない。

 二人が互いを思う様は見ているだけでこっちまで幸せになるようで、なのに、時々二人が二人とも何かに耐え切れないようにお互いを抱きしめるその切実さに、俺は何度心を打たれたかしれない。


「離れんなよ」

「…え?」

「あいつは、お前と大学だったら、真っ先にお前選ぶだろ。もしお前が、日下のためだとか言って日下から離れたら、あいつは大学辞めてお前探すぜ。100万賭けてもいいね」

「まな、ぶ」

「誰だか知らねーけどな、愛してるなら殺せねーだろ、普通。俺はんな感情わかんねーけど、お前、何があったって日下殺せねーだろ?」

「…う、ん」

「だろ?で、日下もお前のことなんて絶対殺せねーし。つーかお前が死ぬぐらいなら自分が死ぬとか言い出しそうだし」

 絶対にそうだと内心首を縦に振りながら、自信満々に凪にそう言ってのけた。それは、俺が女の上で腹上死する可能性よりも高いかもしれないとさえ思う。まあ、その前提として凪の命が危機に晒されるってことになるから、やっぱり俺の腹上死のが高いのかもしれない。

「お前も日下も、俺が知ってる誰よりアイシアッテル二人なんだからよ、できればヨボヨボのじーさんになっても公害振りまいてほしいって思うワケよ」

 俺のこの台詞には凪も首を傾げていたが、まあこれは俺が分かればいい。
 そう思ってアハハハと笑い出そうとしたところで、後ろから物凄い勢いで頭をぶん殴られた。あまりの衝撃と痛みに一瞬呼吸すら忘れたぐらいだ。

「……っなにすんだテメェ!」

 いつ部屋に入ってきたのか、振り向いた先にはおどろおどろしい空気を纏った日下が立っていた。

「てめぇこそ何ほざいてやがる。黙って聴いてりゃ公害だのヨボヨボだの人聞き悪ぃことばっか抜かしやがって」

「あぁ!?ヨボヨボはともかく公害はマジだろうが!」

「どこがだ。俺の家には水銀もプルトニウムもねぇよ」

 そーゆー問題じゃねえ!と怒鳴りつけようとしたところで、ほんの30センチ先で繰り広げられた新たな公害に俺はこのまま気を失ってしまいたかった。

 延々30秒は続いただろうか。
 やったらディープなキスシーンが、そりゃもう臨場感たっぷりに。

「……ぜってぇ公害だっつーの」

 ケッとでも言うように嫌味足らしくそう呟いてやると、キスを終えた日下はそんな俺を綺麗に無視してリビングを出て行き、寝室に入っていった。


「…なあ凪。やっぱ、離れた方がいいんじゃね?」

 半ば本気でそう言ってみる。すると凪は、

「じゃあ学が俺のこと引き取ってくれるワケ?」

 と言って可笑しそうに笑った。その笑いがついさっきの笑みとは打って変わってひどく明るいもので、相変わらず俺の方まで笑みが浮かびそうになる。そのことに安堵しながら「まあやぶさかでもない」と言ってやると、どこからともなく俺の頭に新聞が飛んできた。
 その新聞をバタンと閉じられた日下のドアめがけて投げつけてやって、ああ、これが幸せってもんなのかもしれないと馬鹿みたいにそう思った。







 それから、俺と日下と凪の付き合いは、相も変わらず二人のイチャこきぶりに当てられながら2年続き――つまり俺は1年留年したわけだが――、俺が日本に戻り、二人がオーストラリアに旅立ってからもメールのやりとりは続いた。
 1年に一度、凪は俺のために一枚の水墨画を贈ってくれて、そしてその絵と一緒に必ず入っている日下の辛辣なたった2、3行の手紙は、絵と同じくらい俺の楽しみになっている。

 来年、二人に会いに行こう。
 そう思いながら、俺は壁に飾ってある凪の絵を見る暮らしを続けている。





 峰岸学28歳。当然、独身である。





                                                                   End.


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