「じゃあ俺は帰る」

 男の気配が完全になくなったのを感じ取ってから、直知はそう言ってその場から踵を返した。
 既に空には白い月が浮かんでいて、もうそろそろ空の色が青から濃紺に変わるだろう。何故か無性に祖母の作った夕飯が食べたいと思って、直知は家に向かって走り出した。
 だが。

「……っっ!」

「駄目ですよ、勝手に帰っちゃ」

 突然後ろから体ごと抱きかかえられて、直知は後ろにバランスを崩しそうになる。だが、崩そうにも直知の背にはぴったりとその声の持ち主が張り付いていて、道路に倒れこむこともできない。
 蜂谷の温度をもう一度知るぐらいなら、コンクリートの冷たさと痛みの方が何百倍もマシだったのにと直知は思う。
 こうも己の頭の中をぐちゃぐちゃにする男の体温など、二度と知りたくなかった。

「妬いたんですか」

 なのに、そんな軽薄な台詞を吐く男に、本気で頭に血が昇る。

「…モテモテでいいじゃねえか」

「ぜんっぜん嬉しくないんですけど」

「ああそう。で、お前の仕事って何?」

「おや、私に興味持ってくれたんですか?」

「お前に、じゃない。お前の仕事に、だ」

 何時にない饒舌な自分が分かってはいたが、直知は怒りの針が振り切れるとこうなる自分をよく知っていた。感情にまかせて怒鳴りつけるならまだしも、どこまでも冷たい視線で冷静に喋り続ける様は本気で背筋が寒くなったと友人は言っていたか。

「…いいんですよ、貴方は何も知らなくて。キレーな仕事でないことだけは確かですから」

「そう。じゃあ、咲って誰だよ」

「…さあ、変態じゃないんですか。私のことなんて欲しがるんですから」

「誰」

「…分かりましたよ…怖いなあ…。…まあ、私は何でも屋みたいなもんでして、もう何年も前にその人の専属SPやってたんですよ。そうしたらやたらと気にいられましてねえ…国家予算ほどの金を提示されて、これで僕の専属になれって言われたんです。断るのも難しくて、まあ、結局逃げてきたんですよねえ」

「…………」

「変な人でしょう?相当の資産家でしたからねえ、手に入らないモノなんてなかったんでしょう。意地になってるだけだと私は思うんですが」

 そう言って、後ろで蜂谷が少し笑ったのが直知には分かった。
 直知の耳に触れるほど近くにあるらしい蜂谷の口元から時折吐き出される息が、訳の分からない何かになって直知の体の奥底を激しく揺さ振る。
 その感情が表面に出てくるのを目を強く瞑って押さえ込みながら、直知は心の中で「違う」と独り言ちた。

 捉えどころがなく飄々としているのに、何故かその存在はこの世の誰より鮮烈なのだ、蜂谷という男は。
 空恐ろしくなるような美貌とけして只者ではないだろう存在感は、昼の空を支配する太陽というより、夜の闇に輝く月にも似ているかもしれない。
 寒空に輝く冷えた月そのもののような双眸は、その奥底を覗いてしまった人間なら、きっと誰もが欲しがらずにはいられないだろう。
 その、咲というらしい男が、それまで何もかもを手に入れて来た人間なら尚更。
 直知が知る咲と似たような性質の男は、手に入らないということ自体に耐えられない男だった。もし、手に入らないのが蜂谷のような男なら、咲という男は蜂谷を手に入れる為に何だってするかもしれない。

 その感覚はもちろん直知には分からない。

 直知は、何も所有することなく生きてきたのだから。
 そんな直知にとって、蜂谷という男は存在そのものが強すぎた。
 煌々と輝く月のような男に惹かれるのは、もはや人である以上仕方ないのかもしれない。
 こうやって蜂谷の腕に抱かれて、そう思える気がした。

 だが、たとえ、どんなにこの男に惹かれようが。
 そして、たとえ無様な悪足掻きと言われようが。

 直知は、蜂谷から逃げようと思った。

 

「直知サン?どうしたんです、押し黙って」

「……離せ」

「え?」

 そう言って蜂谷が直知の顔を後ろから覗きこもうとした瞬間、直知はくるりと体を蜂谷に向き直し、ドンと強い力で蜂谷の胸を押した。

「い…ったー。何もそこまで嫌がらなくても…」

 

「もう最後にしようぜ」

 

 蜂谷が言い終えるのを待たずに、直知はいっそきっぱりとそう言い捨てた。
 そんな直知に蜂谷は一瞬目を見開いたが、すぐにどこか子供をあやすような優しい目つきになる。その双眸から目を逸らして、直知は蜂谷の口元を見ながら言葉を続けた。

「お前、危ない仕事やってんだろ?俺はもうあんな目に逢うのはごめんだし、じーちゃんやばーちゃんにメーワクかかるのも絶対にゴメンだ。だから、今日で俺がお前に会いに行くのも、お前が俺に会いに来るのも、ああ、俺のこと誰かに見張らせんのも、最後にしようぜ」

「…直知サン」

「そこそこ、楽しかった。学校はそんなに面白くねえし、ホラ、異文化体験みたいな感じで」

 そう言って、直知は小さく笑った。
 思ってもいないことを口にするのは思いのほか容易いと思ったからだ。
 だが、それは目の前の男だって一緒だろうと直知は思う。
 そのサングラスに隠れた双眸は、たとえそれが直知に向けられていたとしても直知のことを考えているとは限らない。
 笑いながら人を殺せるだろうこの男が、今この瞬間、直知に牙を向けないとは限らない。
 ああ、そうだ、と直知は思う。
 惹かれずにはいられないこの男が、直知はそれ以上に恐ろしくて仕方がないのだ。
 人は誰しもその底を他人には晒さないが、この男は。

 見せている表面すら、本物なのかどうか。

「じゃあな、蜂谷」

 そんな男など、想うことすら許せない。
 体の奥で燻り続ける火種など、いつかきっと跡形もなく消してみせる。

 

 ――そう心の中で呟いて、直知が蜂谷に背を向けた、その瞬間だった。

 

 

「……な、にを…」

 

 

 右の背に感じる、強烈な痛み。

 ドクドクと、何かが背中を伝って腰に流れ落ちる感触。

 

「ねえ直知サン。前に言ったじゃないですか」

 ガクリ、と地面に膝をつく。
 その衝撃で背に刺さったナイフが傷口を広げ、直知は堪らず呻き声を上げた。
 だがそれでも、逃げなければと思っていた。
 というより、それしか頭にはなかった。後ろから近付いてきている男から早く逃げなければと、ただそれだけを思っていた。
 ――だが。

「ッッ!?」

 背中から物凄い強さで抱きこまれて、刺されたままのナイフがギリギリとさらに直知の肉を裂く。
 あまりの痛みに直知が血が滲むほど唇をかみ締めると、直知を抱きこんでいる男がクスリと笑った。

「さすがですねえ、声も出さないなんて」

 そして、ペロリと直知の項を舐める。
 その感触に、直知は痛みではない何かでブルリと背筋を震わせた。

「痛いでしょうねえ…でも、直知サンが悪いんですよ?」

「…お、ま…何考えて…」

「何って、前に言ったでしょう?」

 




――また、貴方を攫いに行くって。

 

 

 

 

 直知が目覚めると、そこは見たことのない部屋だった。
 内心舌打ちしたいのを何とか堪えながら、ゆっくりと体を起こす。すると、背中に引き攣るような痛みが走って、直知は思わず顔を顰めた。
 痛みが去るのを待てずに、直知はぐるりと部屋の中を見渡す。
 白い壁と木製のドアにあのマンションでないことは分かったが、それ以外にここが何処なのかが分かるような窓もなく、そして誰もいなかった。
 くそ、と心の中で毒づき、直知はとりあえずベッドから降りようと右足から床に降りる。
 だがその途端、ジャラリ、と聴き慣れない音が近くでした。

「……な、んだよ、コレ」

 ガバリと上掛けを取ると、直知の左足についていたのは、真っ黒な鉄の足輪と鎖。


 そして、ガチャリ、とドアの錠が外される音がする。
 ゆっくりと開けられるドアから現れた人影に、直知は己の世界がガラガラと崩れた音を確かに聞いた。

 


 そして、胸の中の火種が蒼い焔となって燃え上がった音も。

 

 

 

 

                                                     End.



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