ガラリと玄関の引き戸を開けた先にいた男に、直知は軽く目を見開いた。

「よお、久しぶり」

 まるで旧知の仲の人間であるかのように気安い挨拶をしてきた男は、確か宮路と言うんだったかと記憶を手繰り寄せる。
 だが、手繰りよせるまでもなく、己の家を宮路が突然訪ねてきた理由を直知はうっすらと気付いていた。
 目の前の男と直知を繋ぐキーワードは、ただ一つ。そして、3日前の夜、直知の部屋に侵入してきた男と直知を繋ぐキーワードもただ一つだ。

「悪いけど、ちょっと着いてきてほしいとこがあんだよ」

「…人質になるのはもうごめんだ」

「ブッ…ち、ちげえよ。笑えるなあ、お前」

 宮路は笑えるかもしれないが、事実1週間も監禁された直知には冗談では済まない。その意味を込めて睨み返してやると、宮路は「悪い」と言って表情を戻した。

「用件はな、お前んとこに来た男のことだ。喪服みてえなスーツ着てた男が来ただろ?」

「…ああ」

「下手すると今度はお前に手ぇ出してくるかもしんねえんだと。つーことで、事が終わるまででいいからここじゃねえとこにいてほしいんだわ」

「どこに」

「ま、気分良くねえだろうが、お前が閉じ込められてたとこだ」

 ザワリと何かが背筋をかけぬける。
 それは、けして記憶から消えてくれない男の双眸であるとか、腹を容赦なく殴られた時の痛みであるとか、そして、直知の中に燻り続ける火種の熱さであるとか、そういうもの全てが混ざり合って、一瞬直知の体の機能全てを止めてしまう気さえした。

 もうずっと、直知の中には相反する二つの感情がある。
 それは圧倒的な存在感で直知の何もかもを覆って、時にはそれ以外何も考えられなくなるほどで。
 だが、その感情は秋の寂しげな空気であるとか、雨上がりに残る透明な水溜りであるとか、そういうやわらかなものには決してなり得なくて、焼け跡に残る硝煙の匂いのようにただただ厭わしかった。
 なのに、どうしてその硝煙の匂いを、むしろ己はどうしようもなく求めてしまうんだろうかと直知は思わずにはいられない。
 一瞬で躯を蝕み、脳すら侵蝕していく、絶対に直知にとって良い物にはなり得ないそれを。

 男、を。
 そう、どこか、自分と同じにおいのする男を。

 蜂谷を。

 

 

 

「ま、適当にその辺座っとけ。コーヒーでも入れてやるよ」

 久しぶりに足を踏み入れたその部屋は、あの時と何も変わってはいなかった。
 無機質で、人が住んでいるとは到底思えないような、温度のない部屋。
 だが、直知が7日間を暮らしたあの部屋のドアはあの時とは違ってずっと開いたままだ。そのドアの前に立ち部屋の中を見渡せば、このドアの中にいるのと外にいるのとではこうも見える世界が違うのかと今更ながら思う。
 あの時は檻にしか思えなかった壁の灰色は、確かに今直知が立っているリビングの壁と同じ色で、やはりあの時の自分は平常ではなかったらしいと直知は自嘲した。


 だが、途端耳に聞こえた声に、一瞬、ほんの一瞬だけ、直知の時間は数ヶ月前のあの時に戻った。


「…直知サンじゃないですか」


 誰だろうと、そう思えない己が酷く忌々しかった。
 たった、そう、たった7日を共に暮らしただけの――とは言っても直知は一人部屋に閉じ込められていたのだから、実質顔を合わせた時間は1日にも満たないかもしれない――男を、声だけで分かってしまう自分が、直知は今この瞬間、世界の誰より憎いと思った。
 そして、静かに直知に近付いてくる足音に怯えながら、それでも心のどこかで男を求めていた自分を、できることならこのまま跡形なく消してしまいたかった。

「こっち、見てくれないんですか?」

 吐息すら聞こえるほど近くにいる男が、からかうような声色で直知にそう問いかける。だが、直知が体の向きを変えようとすると、それを遮るように後ろから抱き込まれた。

「――っ」

「…予定外ですが、実物はやっぱりいいですねえ」

「な、にを」

「いーえ、こっちの話です。ま、とりあえず帰りましょうか」

「…どこに」

「貴方のご自宅ですよ」

 話の展開が分からない。その家が危険だということでここに連れて来られたんじゃなかったのかと、直知はキッチンで煙草をふかしていた宮路に視線を向けた。すると、その視線の意味に気付いたかのように蜂谷が口を開く。

「ちょっとした手違いです。貴方の様子を見てきて下さいってだけだったんですよ、ほんとは」

 そう言って直知から体を離し、初めて会ったときと同じような穏やかな笑みを向ける蜂谷を、直知は訳の分からない苛立ちとともに見つめた。
 どう考えても自分が巻き込まれているのは間違いない蜂谷絡みの何かから、まるで何も知らない子供をあやすように直知に何一つ教えずにただ中心から遠ざけようとする蜂谷に、どうしようもなく腹が立った。
 それは、もしかしたらあの晩、あの気味の悪い男が言い残した台詞のせいも少しはあったかもしれない。

『うちのボス、どうしてもあの人が欲しいらしいんだよね』

 放っておくこともできる。気にしないでいようと思えばそうすることもきっとできる、小さな棘みたいなものだった。
 だが、こうやって過去の記憶を呼び起こされて。
 直知の全てを侵蝕していった男が目の前にいて、そして思い出したくもなかった体温を直に感じて、聞きたくもなかった声を聞かされて。
 なのに、今更蚊帳の外に追い出そうとしても、蜂谷。

「…手遅れだ」

「え?」

 また、前と同じようなパターンだなと思いながら、直知は玄関のドアに向かって走った。

「直知サン!?」

 後ろから思いのほか焦ったような蜂谷の声が聞こえる。いい気味だと思いながら、直知は振り向きざま口の端を上げてみせ、そしてすぐに前に向き直ってドアを開け、外に出た。
 階段を急いで降りながら、全くあの時と同じだと思う。
 だがあの時と違うのは、自分があの男から逃げようとしているのではなく、逆にあの男に近付こうとしているということ。




 外に出れば、もうとっくに太陽は沈んでいて、街灯の少ない道路にはほとんど人影もない。

 ――だが。

「……5、いや6人か」

 自分にだけ聞こえるぐらいの声で直知はそう呟く。
 宮路という男が今日直知の家に来たということ、あの名も知らぬ男が直知の家に来たのが2日前だったことを考えれば、この、見えないのにうっすらと感じる人の気配は、少なくとも直知にとって無関係でもそして友好的でもないんだろうと直知は思った。
 そしてそう思ったと同時に、その数人が一斉に直知に向かって動いたのが分かった。

 

 




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