叢雲

 

  


 

「こんばんは、また会ったね」

 そう言ってニコリと笑みを浮かべた男に、確かに直知は見覚えがあった。
 だが、ここは直知の部屋の中で、そして時計の針は午前1時45分を差している。
 その台詞は、公道であるとか喫茶店であるとか、そういう公の場でこそふさわしいもので、その時刻も少なくとも人間が通常起きている時間に限られているだろう。

「……そうですね」

 だが、あまりにあまりのことで、直知もついそう返すことしかできなかった。

 

 

「あの、すみません」

 学校が終わり、家へと帰る途中で、そう後ろから直知を呼び止める声があった。
 例の事件があってからというもの、直知は何をするにも神経を過敏にさせている。しかも、あの時と同じ、学校からの帰り道とあっては、必要以上に警戒しながら後ろを振り向くのも仕方ないと言えば仕方がなかった。

「わ、何か驚かせちゃいました?」

「……いえ」

 瞬時に振り向いた先にいたのは、人の良さそうな顔をした若い男だった。だが、その顔の穏やかさだけで警戒を解くほど、直知は他人を表面だけで判断しているわけではない。そんな直知に気付いたのか、男は少し困ったような笑みを浮かべながら口を開いた。

「実はちょっと道に迷っちゃって。駅までの道を教えてもらえないかなと」

「…この道をまっすぐ行くと大きい通りに出ます。そこで右に曲がって100メートル程歩くと右手に駅に通じる道路があります。標識が出ているので多分すぐ分かりますから」

「んー、よく分からなかったなあ…。あ、一緒に来てもらえませんか?」

「なら地図でも書きますか?」

「や、とりあえず大通りまで一緒に出てもらえれば」

「……どういうつもりです?」

 いくら何でも、あれほど簡単な説明が分からないはずがない。
 たとえ直知がまだ10にも満たない子供だったとしても、目の前の人間がどこか怪しいとは思わざるを得ないような、そんな遣り取りだった。
 道を聞く振りをして、本当は自分を連れて行くのが目的なんだと。

「ま、すぐバレるだろうとは思ったんだけどね。別に悪いようにはしないから、ちょっと一緒に来てくれないかな?」

 と、男は思いのほか簡単に自分の身上を吐いた。
 男はニコニコとまるで直知がそうすることを疑っていないような笑みを向けてきていて、妙に居心地の悪さを感じる。そんなことを言われて着いていく馬鹿がどこにいるんだと、直知は何も言わずに踵を返した。

「んー、やっぱ駄目か……じゃあ、またね」

 後ろでそんな独り言とも直知への呼びかけとも取れる台詞が聞こえたが、直知はとにかく早歩きでその場から立ち去った。
 本当に何だってこう変なことが立て続けに起こるんだろうと、直知は自分の運の悪さをほとほと嘆くしかない。家の塀が見えてきたところでホウと安堵の息を吐き、それでも歩く速さは変えないまま直知は家路を急いだ。

 

 

「あの時何も言わないで帰っちゃったから、会いにきたんだよねー」

「………はあ」

 つまり、その時の怪しいとしか言いようのない男が、丑三つ時に直知の部屋に不法侵入してきて、そしてあたかも「偶然だね、また会うなんて」みたいな台詞を直知に投げかけてきた男である。

「ていうかさあ、この家変わってるよねえ。昔のからくり屋敷みたい」

「……そうですか」

 れっきとした犯罪行為を目の当たりにしているにも関わらず、当の犯罪者があまりに平然としているからか、直知もつい警察を呼ぶと言った当たり前のことが頭に浮かばなかった。

「本当は色々探検してみたかったんだけど、ちょっと時間も時間だしね。やめといた」

「…ありがたいです」

「でもすごい気になる部屋があったんだよねー。ほら、1階の北東の部屋。とりあえず壁抜けることはできたんだけど、中はもぬけの空じゃん?うわ、かなり凝った隠し部屋だーって思って燃えちゃってさあ。でも、気付いたら壁がどんどん狭まってきて、このままじゃ死ぬと思って諦めたんだよね」

「……はあ」

 そうだろうなと直知は心の中で独り言ちる。
 声色のほど悔しそうには見えない顔で不法侵入者が話題にしている部屋は、この家に住んでいる直知ですら入るのには相当の気力と体力と記憶力がいる。祖父の先々代がもともとは作った部屋を、3代かけてさらに難解なものにしたのがあの部屋なのだ。直知がその部屋に辿り着けたのは挑戦すること6回目、12のときだった。

「あれほど難しいってことは、中にあるのって相当の物ってことだし、また挑戦してみたいなあ…」

 そこそこ本気でそう呟いているらしい男に、直知は心の中だけで「やめた方がいい」と教えてやる。
 何のことはない、直知がやっとのことで辿り着いた部屋には何もなかったのだ。もぬけの殻だ、つまりは。さすがにその時ばかりは直知も相当頭に来て祖父にぎゃーぎゃー噛み付いたが、

『あのな、直知。俺が価値があると思ってるのは刀だけだろう?あんな場所に仕舞ったら、刀の意味がねえじゃねえか』

 と返され、その納得するしか他にない理由に溜飲を下げるしかなかった。だが、だったら挑戦したくなるように仕向けるなと思ったが、それを言ったところで祖父から何か満足できるような答えが返ってくるわけではないことは重々承知していた直知はそれを口に出すことを諦めたのだ。

「うわ、なんか世間話しちゃってゴメンゴメン。でさ、やっぱり俺と一緒に来る気ってない?」

 数時間前と同じに、ニコニコと顔を笑みの形にしながらそう言う男はやはりどこか気味が悪いと直知は思った。

「ありません」

「ありゃ、即答か。じゃあ……蜂谷さん関係って言ったらどう?」


 その、名前すら知らない男が口にした男の名前に、直知は思わず肩が揺れた。


「…やっとポーカーフェイスが崩れたねえ。――ってことで、一緒に来てくれる?」

「……俺には関係ない」

 やっとのことでそれだけを口にすると、男はおもしろそうに片眉を上げてみせた。

「へえ?1週間も一緒に暮らしてたのに?」

「…監禁されてただけだ」

「にしては、あの人君のことずいぶん気に入ったって聞いたんだけどなあ」

「出て行け。警察呼ぶぞ」

 男から視線を外し、ベッド脇に置いてあった携帯に手を伸ばす。すると、男は何がおもしろいのか、ひどくおかしそうに声をあげて笑って、そして「わかったよ」と言って窓を開けた。途端入り込んできた冷たい風に、男が窓から出て行くつもりであることが分かる。だが、開けたはずの窓の音も、そして動いたはずの男の足音も聞こえず、それだけで男が只者でないことが知れた。

「あ、言い忘れてたけど、うちのボス、どうしてもあの人が欲しいらしいんだよね。それで君を利用しちゃおうって思ったんだけど、君って蜂谷さんに気に入られてるみたいだし、今回は諦めるよ」

 途端、音もなくフッと男の気配が消える。
 その気配のなさが、直知にどうしようもなくあの男を思い出させて、直知はギリと強く拳を握った。

 

 ――未だ消えてくれない、直知の中の火種。
 ただ名前を聞いただけでその火種が一気に赤く燃え広がった感触がする。



 関係ないと言いながら、そして、自分でも関係ないと思いながら、それでもどうしようもなくあの男の双眸に会いたいと思う己が酷く忌々しいと直知は思った。

 

 



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