一人を傷つけたくないと思うことが、
誰かをどうしようもなく傷つけることを知った。









例えば人を愛しその人のために尽くすという事
唇が動く 「私ニハ デキナイ」


  

 あれはまだ、あの子供と「恋愛」していなかった頃。
 車の中、あまりに澄んだ声で好きだと告げられた翌日の放課後のことだ。周防が、ただ傷つけるだけために紘を手酷く抱こうとしたのは。
 制服の釦を引きちぎるようにして外し、ひどく乱暴にその肌を暴こうとしたその時、子供は、笑い声を上げた。笑っていることに誰も気づかないような、あまりに痛々しい笑い声を。

「…穂積」

 顔を覆って笑うその様に、思わず子供の名を呼ぶ。
 すると、子供は肩肘をついて上半身を起こしたあと、周防に向かって笑んでみせた。
 目じりから流れる涙に気づいていないかのように、

「ちゃんと、忘れてやるよ」

 そう、言って、また笑った。

 周防の動かぬ心が爆ぜたのは、多分あの時だ。
 あの子供は、何故か欲しがるだけの人間ばかり集めるらしい周防に、初めてそうでない人間もいるのだと気づかせてくれた。
 血を見せたあの女も、目の前で大学の屋上から飛び降りようとしたマヨも、誰も彼もが、周防の心と体をただただ欲しがった。自分だけを見てと、誰かは言葉に出し、誰かは言葉に出さずに周防を見つめた。それはまるで、飢えてもいないのに次から次へと食べ物を口に詰め込まれるような、ひどい嘔吐感しか周防にもたらさなかった。

『なあ…環。その子、環の何?』

 そうマヨに問われた時、周防は何も答えることができなかった。当たり前だ、周防自身その時紘が己にとってどういう存在なのか量りかねていたのだから。
 ――だが、多分今なら答えられる。その答えは正しくはないのかもしれないが、それに近いものにはなっているはずだ。



 

「……ここにはもう来るなって言っただろうが」

 ハアと溜息をつきながら煙草に火をつける。
 授業の後、一息つこうと準備室に来てみれば、昨日そう告げたはずのマヨが我が物顔で椅子に腰掛けていた。しかもその表情からは何の後悔も罪悪感も見つけられない。

「ごめんね、タマちゃん。でも今日でとりあえずはやめるからさ、今日だけは勘弁して?」

 ニコリと屈託なく笑うその顔は、大学時代からまったく変わらない。これで周防と同い年だなどとは、多分マヨを知らぬ人間は思いもしないだろう。
 それに、とりあえず、と言っているあたり来るのをやめる気はないらしい。それがマヨという人間だし仕方がないと思いながら、周防は窓を背に寄りかかった。

「…ねえ、タマちゃん」

「…あ?」

「俺がここに来るようになってから…多分1ヶ月ぐらいなんだけどさ。……あの子と、何かあったでしょ」

「………」

 ――あれは、多分マヨがはじめてここを訪れた時だったか。突然抱きついてきたマヨの背を撫ぜていた時に、ちょうどあの子供が部屋に入ってきたのは。
 そして子供を追った先の階段で、傷ついた眸で子供は周防が欲しいと言った。
 あれほど真正直な告白もない。だが、あれほど体ごと揺さぶるような言葉も、周防は知らない。似たような言葉は数え切れぬほど言われたが、それとは何もかもが違っていた。告げる人間の眼も、告げられた己の感情さえ。

「……これまで見たことのない目、してるね」

「…え?」

「誰かのこと思ってる目をしてる」

 そう言って、マヨは椅子から立ち上がり、周防の前まで近寄る。間近で見たマヨはこれまで見たどんな表情もその顔には乗せていなくて、周防は少し目を見開いた。
 だが、マヨの両腕が周防の首に回されようとしているのが分かって、周防はマヨの腕を押さえた。その瞬間、マヨは今にも泣きそうな顔をして、そして顔ごとぶつけるかのように周防にキスをした。

「…ゃ、めろ…っ」

 煙草を持っていない方の手でドン、とマヨの体を押しやる。力の加減なくそうしたからだろう、丈夫とは言えないマヨの足は体を支えることができず、ドサリと床に倒れこんだ。
 しばらく、重苦しい沈黙が準備室に流れた。周防も、そしてマヨも、一言も口も聞けず、体も動かせなかった。
 それを破ったのは、喉の奥から搾り出されたような、マヨの低く掠れた声だった。

「環、が、変わってなかったと思ったのは、勘違いだったな」

「………」

「あの子のこと、本気で好きになった?もう、俺がお前を好きだって言っても、どうにもならない?」


「……前に」

「…え?」

「前にお前が、穂積が俺にとって何なのかって聞いたこと、覚えてるか」

 それまで合わせなかった視線をマヨに向けて、周防は問う。
 するとマヨは怪訝な表情を浮かべながらも小さく頷いて、それを見た周防は言葉を続けた。

「かなり前に…穂積を強姦しようとした。とにかく傷つけて、俺を諦めさせようと」

 そう言うと、マヨは大きく目を見開き、息を呑んだ。そんなマヨに周防は自嘲するように笑んで、それから目を伏せた。

 あの時、それは周防にとって何の意味もなく、そうすることにどんな感情も伴わなかった。伴っていたとすれば、子供をどこまでも傷つけたかった、ただそれだけ。
 だが。
 今思えば、その頃にはすでに紘にどうしようもなく惹きつけられていた。
 なぜなら、周防に恋情を訴えた人間に、己から離れさせるためだけにあんな方法をとったことは過去に一度もない。抱けば、相手はさらに周防を求めるだろうことが分かっていたからだ。人は、一つが叶えば二つを望む生き物だと知っていたから。
 なのに、周防は子供を抱こうとした。たとえそれが子供が望まぬ目的のためだとしても、周防はわざわざその方法をとったのだ。
 多分その時点で、周防はとっくにあの子供にイカれていた。
 そうでなければ、あの時の己の行動に説明がつかない。

「あいつ、笑った。…泣きながら、笑ったんだよ」

 そう、あれは。
 あの子供の、あの笑みは。
 周防の心を爆ぜさせた唯一のもの。

「……あいつを、傷つけたくないと思う。あの子供が望まないことは…そうすることで傷つくだろうことは、しないでやろうと思える人間なんだ、穂積は」

 それが、あの時のマヨの問いへの答え。
 今周防ができる、正解に近いだろう答え。
 ――周防がマヨと抱き合っていたとき、あの子供は確かに傷ついていた。表情を変えぬことを常とする子供が、遠目にもそうと気づいてしまうぐらいに。
 ならば、己は誰ともそうすまいと思う。あの子供がそうすることで傷つくなら、己はあの子供以外に触れるまいと。
 それに、どうせ。
 あの柔らかな指を知った今では、あの子供だけしか触れたいとも思わないのだ。

「…今日は、帰る」

 そう言うと、マヨはフラリと立ち上がり、ドアへと向かう。かすかに見えた横顔はひどく青白くて、今にも倒れそうにさえ見えた。
 だが、ここでマヨに手を貸してやるわけにはいかないのだ。
 マヨが求める思いに先がない以上、早く己とは違う方へ目を向けさせてやらなければならない。
 そうしてやることだけが、何も返せなかった10年を、唯一周防が贖える方法だから。

「二度とここには来るな、磯崎。友人としての付き合い以上を求めても、俺は何も返せない」

「……っっ」

 ――10年。そう、10年も、マヨを傷つけることを躊躇して、こう言ってやることができなかった。
 曖昧な友人関係を続けることに、マヨを傷つけてでもその思いを断ち切る必要はなかったから。
 けれど。
 それであの子供が傷つくなら、己はこうすることに躊躇しない。
 たとえそれが、友人をひどく傷つけても。

 準備室を出て行った足音が遠くなって、周防は大きく溜息をつく。

 

 こんな男に10年も思いを尽くしたマヨが、どうしようもなく悲しかった。

 

 

  

 

 例えば人を愛しその人のために尽くすという事
 唇が動く 「私ニハ デキナイ」

 

 

                                                  End.

 


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