ああ、この人はなにも知らないのだと知ったとき、

 どうしてこの人を好きになってしまったのだろうという絶望と、
 
 それでも、この人がほしいと思う自分の浅ましさを、思い知った。

 

 

 

言わなければ良かった 泣かなければ良かった 知らなければ良かった
でももう遅い 何もかも遅すぎた


  

 カキーンと、野球のバットがボールを打った音がした。
 紘以外誰もいない教室にその音は綺麗に響いて、紘は机に突っ伏していた頭を上げ、ゆうるりと窓の外を見た。だが、向けた先にあった教師用の駐車場に、この教室から野球部のグラウンドは見ることができなかったことを思い出す。だが、見えないけれど綺麗に響くボールの音や野球部員たちの掛け声に、紘は無意識に小さく微笑んだ。
 ひどく静かな、放課後の教室。あまり放課後まで居残ることの少ない紘が、放課後の教室が思いのほか居心地がいいと知ったのはつい最近だ。周防に頼まれたCDの整理を始めるようになってから、周防の仕事が終わるまでこうして誰もいない教室で周防を待つことが多くなったから。

 ふと時計を見上げると、もうすぐ5時になるところだった。確か5時には迎えに来ると言っていたから、そろそろ周防の仕事も終わる頃だろう。

 ふわあとひとつ欠伸を零し、伸びをする。そしてもう一度窓の外に視線を向けると、そこから赤く染まった夕日が見えた。
 ――その夕日が、悲しく見えるようになってからどのぐらい経つだろう。
 赤焼けて沈んでゆく太陽が紘をどうしようもなく悲しくさせるようになったのは、たしかに周防と出会ってからだろうと紘は思う。というより、あの教師は、何故か決まって日が落ちる時間に紘を傷つけるようなことばかりするのだ。
 そうでなければ、あんなに綺麗で華やかな夕日が悲しく見えるはずなどないのだから。

『タマちゃんは変わってないね、穂積くん』

 そう言ってつらそうに笑ったあの人も、周防のせいで何かが悲しくなってしまってはいないだろうか。
 紘にとっての夕日がそうであるように。

 ――と、後ろで静かにドアが開けられる音がした。窓に目を向けていた紘が、やっと来たかとその音に後ろを振り向くと、そこにいた人影に紘は思わず息を呑んだ。

「あ、やっぱり穂積だ」

 相変わらず穏やかそうな顔と、色素の薄い茶色の髪。
 同じクラスの、笠原碧(あおい)がそこには立っていた。

 だが、その笠原は、いきなり思いもかけないことを口にした。

「周防先生待ってるなら、無駄だと思うよ?」

「…え?」

「ここ最近よく先生に会いに来てた…ほら、あのひょろりと背の高い人。さっき音楽準備室に入っていったみたいだから」

 穏やかな笑みを浮かべながら放たれた笠原の台詞に、紘がどれだけ傷ついたか、笠原は多分知らない。いや、傷つくことを予想して放った言葉ではあったが、その台詞が今の紘にとって体に突き刺さる刃とそう変わらないものだったことを、笠原は知らなかったはずだ。
 つい数日前、紘の目の前を真っ赤に染めた光景が、もしかしたら、この教室を出て、階段を上がった先の部屋でまた繰り広げられているのかと。

「―――ッッ…!」

 苦しい苦しい苦しい―――!
 苦しすぎて、うまく息も吸えない。
 胸の中を得体の知れない何かが這いずり回って、頭の先から足の爪先まで、どんどん紘の体を冷やしてゆく。
 冷たくなった指先が小刻みに震えるのを、もう紘自身にも抑えることができない。

『恋愛してみるんだろ、俺と』

 嘘つき――。
 なんて、嘘つきな教師だろう。
 恋愛をしてみるなどと言いながら、恋愛をしているつもりでいるのは自分だけで、当の周防はそんなつもりなど小指の爪の先ほどもないくせに。
 恋人であるはずの己の目の前で違う人間と抱き合って、そのことを弁解すらしないくせに。
 弁解どころか、まるで何もなかったかのように、己に笑いかけたくせに。

 ああ、この教師は恋愛をしているつもりなどないのだと知って、紘がどれだけ絶望したかなど、周防は一生気がつかないのだ。
 そして、それでも周防から離れられない己を思い知って、紘がその晩どれだけ己の浅ましさを嘆いたかなどと。

「…ほんと、可愛いね穂積は」

 突然後ろから抱き込まれた感触に、紘は思わず息を止めた。あまりの突然の動作に、耳元でささやかれた言葉など何ひとつ紘の耳には入らなかった。

「はな、せ」

「嫌だよ。こんなに近づけたの初めてなのに」

「笠原…っ」

「あはは、うそだよ。ごめんな」

 ふわりと体に回されていた腕が解かれ、紘はそのあまりに柔らかな動作に一瞬動けなくなる。だが、すぐにはっと我に返って、笠原から離れるように窓際に体を寄せた。
 キッと睨みつけた笠原の顔は、やはりいつも教室で見るそれとはまったく違う。穏やかそうな表情なのに、紘に向けている目は穏やかではけしてない。
 だが、今の目は、以前に見たあの獣じみた目とはどこか違うような気がした。

「なあ穂積」

「…何」

「周防先生と付き合ってるんだろ?」

「………」

「そうだろう?」

「……違う」

 ――そうだ、違う。
 たしかに、紘は周防に好きだと言ったし、たしかに、恋愛してみるかと問われて、それに頷いたのは紘だ。
 だが、周防は言った。

『もし俺がお前を愛せたら』

 あれは、周防が紘を、好いてはいないということだ。
 ――けれど、それでもいいと言ったのは、紘だ。
 周防が己を好いていなくてもいいから、好きでいさせてくれとせがんだのは、紘の方だ。
 そんな紘を哀れんだのか、それとも少しは情が移ったのか、恋愛をしようと言ってくれたのは、マヨの言う周防の優しさなのだろう。
 たとえ、それがどれだけ残酷なのか、当の周防が知らなくても。

 そして、そのことにどれだけ傷ついても、それでも、紘は周防が欲しいと思うのだから。

「…違う、笠原」

「別に隠さなくても」

「隠してるわけじゃない。本当に、そうなんだ」

 笠原が言い終えるのを許さないかのようにそう言った紘に、笠原は驚いたような表情をした。一体何に驚いたのか紘には分からなかったが、しばらくすると笠原はひどく優しげな目を紘に向けて、そして静かに口を開いた。

 

「…辛いね、それは」

 

 ひゅっと、息を呑んだ。
 それから、カタカタと体が震えて、間もなく大粒の涙が紘の頬を落ちていった。

「穂積?大丈夫?」

「来るな!」

 ぼろぼろと涙を流しながらそう怒鳴って、紘は笠原の脇を走って通り過ぎ、教室から出て行った。バタンと乱暴にドアが閉められる音が後ろでして、笠原は呆然と紘がさっきまでいた場所を見つめる。だがしばらくして小さく笑みが浮かんできて、そして、思わず「ほんと、かわいい」と呟いた。
 小さかった笑みが、だんだん大きな笑みに変わって、そして、とうとう声をあげて笑い出す。
 と、そこに後ろで静かにドアが開けられる音がした。その音に、笠原は声をあげて笑うのをやめる。だが、ドアを開けて入ってきた人間が容易く想像できて、笠原は笑みが浮かぶのが止められなかった。

「…笠原?」

 低い、大人の男の声に、笠原は穏やかとは言えない笑みをその顔に浮かべる。そして、窓の方に顔を向けたまま、笠原はゆっくりと口を開いた。

「先生、あの子、もらいますね」

 そう言って、くるりと顔だけを周防の方に向ける。
 そこにあったのは、想像通り、なんの表情も浮かべていない、副担任の冷たく整った顔。

「あんなにかわいくてきれいな子、初めて見ました」

 

 くすくすと、笠原は小さく笑う。

 それを、周防は表情を変えずにただ見ていただけだった。

 

 



 

 言わなければ良かった 泣かなければ良かった 知らなければ良かった
 でももう遅い 何もかも遅すぎた

 





                                                  End.

 


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