無限音階U




 G dur


 

 周防のことで、分かったことが一つある。
 それは下の名前とか、生まれた場所とかそういうことではなくて、多分俺だけが感じるんだろうことだ。

 

「先生って、うるさくないっすね」

 そう言うと、周防は全く不可解だとでもいうような表情で俺を見た。

「…無口とでも?」

「違う。…多分、無意識にそういう風に動くんだと思うけど」

「余計分からないが」

「…俺、ナントカっていうやつで、すげー音に敏感なんですよ。先生の音、全然うるさくないから」

「そのナントカがわかんなきゃどうにもならないと思うがな」

「あーー名前忘れたんですよね…ああ、でも症状っていうか、不協和音が駄目なんすよ。ヘッドホンなしで街出ると、本気で吐き気するくらい」




 ――まだ9、10歳の頃だったか、その症状が出たのは。

 親の影響もあって、俺は5歳の頃からバイオリンを習っていた。
 別に好きだとも嫌だとも思わずバイオリン教室に通っていたが、小さい頃から習っていた分、少しは上手く弾ける方だったかもしれない。幼心にも、バイオリンがかき鳴らす音は綺麗だと思ったし、手に馴染む木の感触も別に嫌いじゃなかった。
 だが、ある時期からいきなり色々な音が俺の耳につくようになった。車のブレーキ、母親のする炊事、小学校の教室の喧騒――それこそ挙げればキリがない。
 そしてそれは日を追うごとに酷くなっていって、ある日、バイオリン教室で誰かの演奏を耳にした途端俺はその場で吐いた。ただ憶えているのは、最後に鳴らされた音がGだったことだけ。

 原因も分からず、とりあえず具合が悪かったんだろうということでその場はおさまったが、翌週同じ時間にレッスンに行って、またそいつのバイオリンで俺は吐いた。俺がそいつのバイオリンが鳴らす音が吐き気の原因だと気付いたのはその時で、それを親に言えば、親は納得したような、そして同時にひどく困惑したような表情をしたのを憶えている。
 それから、それはナントカだからしょうがないわねと言われ、そしてレッスン日を替えたからもう大丈夫だと親には言われた。


 だが結局、俺はもうバイオリンを弾いていない。 




「…ああ、俺が不協和音立ててないってことか、じゃあ」

「そう。大抵の奴は、一気に二つのことすると絶対どっかが不協和音になるんすけど、先生は二つのことやってもなんないから。だから、うるさくないなあと」

 最初は酷く不思議だった。
 時折こうやって二人でいる回数が多くなっていくうちに、そういえば周防といる時は一度も嫌な気分にならないと気づいて、その理由が音にあることは長年の経験でよく知っていたから。
 だから、もしかしたら周防も俺と同じなのかと思って様子を見てみたがどうやらそうではないらしく、無意識にそうなっていることが分かって、ああ、こいつはうるさくないなあとしみじみ思ったものだ。

「そりゃドーモ」

 と、窓際の椅子に腰掛けながら、言葉に何の感情も込めずに周防がそう呟く。この教師が、その辺に転がっているこいつと同い年ぐらいの男とは何かが違うと思うのはこういう時だった。
 ただ‘話す’ことを知っている。それも、ちゃんと他人の目を見て、口の端を上げてみせながら。

「…先生」

「あ?」

「今日は、しないんですか?」

「何を?」

 あ、これは本気で訝しんでる顔だ。
 そう思って、何故か少し嬉しかった。


 ――だから、そのままキスしてやった。


 俺は立っていて、周防は椅子に座っているから、前と違って俺の方が見下ろす形になる。だが見下ろす側になって初めて、こっちの方が相手の顔がよく見えることに気付いて、俺は我慢できずに途中で目を閉じてしまった。


「…仕返し」

 多分前にされたそれよりずっと短い時間で唇を離し、俺は独り言のようにそう呟いてやる。すると、軽く俺を見上げるようにしていた周防は、「ナルホド」と言って小さく笑った。
 ああ、俺は笑えなかったのに、やっぱりこの教師は笑う余裕すらあるのかと少し悔しくなる。
 いや、悔しいというよりは、悲しいというか。
 この気持ちが何から来るのか少しだけ分かってしまった俺がいて、本気で勘弁してくれと心の中で手を合わせた。

「穂積」

「ハ?」

 突然呼ばれた自分の名前に驚いて変な声が出る。だが、周防はそんな俺には全く頓着しないように椅子から立ち上がり、今度は逆に見下ろされた。

「……ン…」

 唇にやわらかい感触が押し付けられる。
 だが、今度は舌を入れられて、俺は堪らず周防の腕にすがるような形になった。

 強引に、けれど優しく口内をかき回される。


「リベンジ」


 そう言って、口の端を上げる。

 あっという間に唇から周防の唇の感触はなくなって、それは、周防そのものみたいだった。

 

 惹きつけておいて、突き放す。

 

 まるで、タチの悪い麻薬のようだと思った。

 

 

  

                                                      End.



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