無限音階

 

 C dur


 

「好きです、先生」

 何やら人の声がすると思って、ウォークマンの片方のヘッドホンを耳から外すと、タイミングがいいのか悪いのかそんな台詞が聞こえてきた。
 俺が聴いていたのは日本語の曲でもなければ歌詞もない音楽だったので、それが外したヘッドホンからもれた音でないことは分かる。とすれば、俺と大して距離の離れていない場所で、誰かが教師に告白をしているのは間違いない。
 どうにも嫌なところに出くわしたなとは思うが、かと言ってここから出て行くわけにもいかない。仕方ない、まんじりとコトが終わるのを待つかと、外したヘッドホンを耳に戻そうとした。

 ――が。

「それで?」

「…付き合ってください」

「断る」

「……理由を、聞いてもいいですか」

「教師が生徒に手ェ出すわけないだろ」

「それだけ、ですか?」

「それ以外必要あるか?」

 そこで会話は途絶え、しばらくしてパタパタという足音がしたかと思うとバタンと勢いよくドアが閉まる音がした。
 なぜか俺の方まで緊張してしまっていて、ドアの音がしたと同時にホウと溜息が漏れる。ついヘッドホンを戻す手が止まったのがいけなかった。まあ、俺にも人並みの好奇心はあるしなと自分を納得させ、今度こそヘッドホンを戻す。停止しておかなかったせいで曲目がすでに変わっていたが、別にいいかとそのままにして軽く目を閉じた。


「おい」


 が、その声にすぐに目を開ける。俺はあまり音量を高くして聴かないからか、その声はかなり明瞭に俺の耳に入った。まあ、さっき告白されていた方の教師の声だろうことは容易に想像できたが。

「…何すか」

 ヘッドホンを取り、今度こそ停止ボタンを押す。
 声で分かってはいたが、声の持ち主の方を見上げてみればやはりそこには周防(スオウ)がいた。傍から見ればモデルにしか見えないような、ひどく端正な顔をした音楽教師。そして、俺のクラスの副担任。

「屋上閉めるから帰れ」

「…まだ4時半だけど」

「明日は祝日だからな、早く閉めるんだよ」

「……わかりました」

「ああ。…って、その組章2Bか?」

「そうっすけど」

「…お前、学校来てるか?」

「それなりに」

「名前は」

「穂積(ホヅミ)」

「…穂積、紘(ヒロ)か」

 だからそう言ってるだろうという台詞が喉元まで出掛かったが、今の自分の格好を思い出してやめた。格好というよりは、付属品とでも言うか。

「……お前、眼鏡かけると別人だな」

「…よく言われます」

 

 俺は、この学校では所謂「不良」とやらにカテゴライズされている。
 事実はともかくとして、入学したその日から俺は何もせずとも周りの生徒に避けられ、教師からは軽蔑とも畏怖とも取れるような目で見られ続け、現在に至る。
 それが入学式の直前に起こした一騒動のせいだとは十分分かっていたが、それ以上に俺の顔が俺が不良と呼ばれる所以だとは気付いていた。いや、顔は至って普通なのだが、目つきが。
 実際、それを指摘されたのはまだ中学の頃で、しかも母親から言われたのが最初だが、本気で別人に見えるほど俺の目つきは‘その時’悪かったらしい。そりゃもう母親ですら怯えるほど。

 そう、俺はいつも目つきが悪いわけではない。

 とどのつまり。

「…お前のソレ、単に見えないからか」

 俺は、視力が右眼が0.3、左眼が0.2しかないってだけだ。

 恐ろしく運が悪いとしか言いようのないのだが、高校の入学式当日の朝、俺は寝ぼけて枕元に置いておいた眼鏡を踏んづけてしまった。それで、しょうがなく視界をぼやけさせたまま入学式に行けば、校門に入ってすぐの花壇に足をひっかけて転び、またまた運悪くこめかみにかなり大きな擦り傷ができた。その時にはすでに開会ぎりぎりの時間で、血を拭く暇もないまま式に駆けつけたわけだが、そこからは言わずもがなというものだ。

 まず教師と思しき人間が「だ、大丈夫か」とどもりながら俺の方に近付いてきた。繰り返すが俺はそのときほとんど見えていない。なので、どうにか視界をはっきりさせようと目をこらしたのだが、その目つきがとにかく凶悪だったらしい。近付いてきていた教師の足が止まり、見ていた生徒たちが息を呑んでしまうほどには。

 結局、教師は何も言わずに踵を返し、俺はと言えば自分のクラスの列を探そうと目をこらして生徒が座っている方を見渡した。が、俺の内心はまったく生徒には伝わらず、ただただ俺が生徒全員を睨み付けているとしか思われなかった。

 



「何で普段眼鏡してない?」

「なんかいろいろ面倒そうだし」

「…まあ、あれほど騒がれりゃな」

 そう言って周防は小さく笑った。
 それは授業中には一度も見たことがないような笑い方で、何故か目の前の教師が年上の男なのだと強烈に意識する。少なくとも、俺の周りにこんな笑い方ができる男はいない。そして、周防はひどく自然な仕草で胸元のポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

 その煙草を挟んだ長い指に何故か目が釘付けになって、どこか焦ったように俺は口を開いた。

「…先生は、いつもああいう振り方するんすか」

 が、言った途端にものすごい後悔が俺を襲う。何に焦ったのかすら分からず口をついた台詞はあまりに下世話で、同時に羞恥心も沸き起こった。そんな俺の様子に気付いたのか、周防はやはりさっきと同じように小さく笑って煙草の紫煙を吐き出した。

「一応教師だからな」

 思いのほかちゃんとした答えに、少しだけ俺は瞠目する。だが、生徒には、という言い方が気になって、ついまた余計なことが口をついた。

「…意外っすね」

「へえ?」

 前を向いていた周防の顔が、おもしろそうに俺の方に向けられる。初めて近くで見たこの教師の顔はやはりどこまでも整っていると思いながら、俺の視線はもう一度その指に吸い寄せられた。

「生徒と教師だから駄目、なんて思うような教師には見えない」

「……何で」

「俺が煙草吸ってても、何も言わないし」

 そう言って、俺はずいぶん前から右手に持っていた煙草を周防の前に翳した。それはいつの間にか灰が指につきそうなほど短くなっていて、そのまま傍に置いてあった携帯用の灰皿に突っ込む。そうして顔を上げると、周防は別に焦ったような顔も困ったような顔もしておらず、何を考えているのか分からないような笑みを浮かべているだけだった。

「…んじゃ。さよーなら、先生」

 まあ、オトナの男だし、そうだろうなと思う。
 確か28のはずの周防が、たかだか17の俺が言った台詞で表情を変えるはずもないかと、ひょいと立ち上がった。

 ずっと同じ姿勢をしていたせいで、少し首と腰が痛い。
 首を回すとコキと小さく音がして、あ、Cの音だと思いながら屋上の扉に向かって一歩足を踏み出した。

 ――が。

「う…っわ……!」

 ガクンとものすごい力で右腕が後ろに引かれ、そのまま背中から床に倒れこみそうになる。だが、床に叩きつけられる前に俺の腕を引っ張った張本人が体を支えてくれたようで、俺は思い切り安堵の息を吐いた。


 だが、すぐにその息は、飲み込まれた。


「……っっ!?」

 顎を思い切り後ろに引かれたと同時に、唇が塞がれる。目を閉じることもできずに呆然としていると、俺の口を塞いでいる男も、同じように目を開けたのが分かった。

 

 どこまでも、真っ黒な、双眸。

 吸い込まれそうだと、本気で思った。

 

「――これが、お前が思ってた俺か?」

 

 何を考えているのか分からない目。

 内心を全く伺えない低い声。

 俺とは違う、煙草の味。

 


 ――こいつに捕まったら、終わりだ。

 

 

「…そうっすね」

 

 

 そう言うと、周防は小さく笑った。

 あの、後から思えば、その時には既に囚われたのかもしれない笑みで。

 

 

  

                                                     End.



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