無限音階W




 B dur


 

 苦しい、とか、辛い、とか。
 そんな感情、できることなら一生知りたくはなかった。
 17年生きてきて、それなりに苦しいことも辛いことも体験してきたつもりだった。だが、俺が経験してきたそれらは全て、本当に苦しくも辛くもなかったんだと今なら分かる。鬱憤を晴らす方法も、八つ当たりをする対象もあって、そして俺から何も奪ってはいかなかった。

『アンタが好きです』

 その8文字は、確かに俺が言った言葉だ。
 なのに、そのたった8文字が俺から何もかもを奪っていく。自分が発した言葉が俺自身を削っていくことがあると知らなかった俺は、やっぱりガキだったのかもしれない。
 あまりに急激に囚われて、そしてあまりに簡単に好きだと言った俺を、あいつは多分軽蔑すらしているだろう。

『俺に何も求めるなよ、穂積』

 きっと、俺が囚われた時と同じ笑みをその顔に乗せながら、あいつはそう俺に言った。
 俺の恋は、多分始まる前に終わったのだ。

 

 

「…づみ……穂積」

「…は?」

「は、じゃない。出欠だ」

「ああ…すんません」

 つい、脳みそが空っぽになっていた。
 教壇の方を向けば周防が何の表情も浮かべず俺の方を見ていて、もう一度謝ってから窓の方を向く。
 選択授業を音楽にしたのは本気で間違いだった。あと半年はあいつと週に1回は顔を合わせなきゃならないと思うと、登校拒否がしたくなる学生の気持ちが分かる。
 だが、周りの話によれば、周防の音楽はどの授業よりラクだと言っていたから多分どうにかなるだろう。あいつのことだ、50分授業のうち45分を音楽鑑賞にでもしてるのかもしれない。

「……の奴、順番に前出て来い。担当委員決めるから」

「えー、立候補じゃないの?」

「前期それで面倒だったからな。――ホラ、前出ろ」

 そう言えば、うちの高校には各教科ごとに担当委員とやらが設けられてあった。担当委員と言えば聞こえはいいが、要は教師の雑務係だ。プリントの配布とか機材の片付けとか。だが前期それで面倒だったと言っているあたり、周防目当ての女子が立候補しまくったんだろう。
 そんなことを考えていると、気付けば教壇の前に生徒が2人立っていた。担当委員は確か一人じゃなかったか?とは思ったが、まあどうでもいいかと俺はぼーっと周防とその2人に目をやった。

「…一人足りないな」

「え、ほんと?私が15番で…千葉くんが25番でしょ?だったらいないの35番じゃない?」

「そうか。おい、出席番号35番、前出ろ」

 …マジかよ。
 本気で溜息が出そうになった。周防が何も考えずに5がつく番号の奴とか何とか言ったんだろうから余計かったるくなる。
 しょうがないと思いながら席を立つと、生徒が一瞬固まったのが簡単に分かる。まあそうだろうよと思いながら、トボトボ前に出た。

「穂積。お前ぼーっとしすぎ」

「…スンマセン」

「おし、じゃあお前ら窓の方向け」

 それに素直に従い、俺と2人は訳も分からず窓の方を向いた。…俺と彼らは少し距離が離れた場所に立ってはいるが。
 ――と、そこにポーンとピアノの鍵盤が押される音がする。ピアノを弾く人間の鍵盤の押さえ方は、ピアノをやらない人間とは全然違うと言うが、周防のそれは本当に分かりやすい。音楽室に綺麗に響いた音に、俺は少しだけ色々なことを忘れた。

「15、今の音は?」

「え!?…えっと…ド?」

 すると、また別の鍵盤が押される。

「これは?」

「…ミ、かな」

「次25、……これは?」

 どうやら、音を当てさせるらしい。次々に周防は色々な音を鳴らしていき、生徒に聞く。
 ナルホド、と周防の考えが読めたが、一体‘どっち’なのかが分からない。だが、周防は俺がバイオリンをやっていたことを知ってるのだから――。

「35。……これは?」

「………ラ」

「…じゃあこれは」

「レ」

「これは?」

「…ソとシ」

「よし、もういいぞ。おい、穂積。音楽委員はお前だ」

「……なんで」

「お前、全部外したし」

 ――絶対に。
 これは、絶対に俺への嫌がらせだと自信がある。この状況でどうやって、曲がりなりにも音楽の担当委員を一番音を外した生徒がやるって判断する奴がいるか。
 しかも、こいつは、俺がわざと答えを外したことを知っているだろうに。

「ああ、授業終わったら書いてもらう用紙あるから残れよ」

「……はい」

 

 

 

 案の定、授業が終わって用紙とやらを書いたところですぐに仕事を渡された。音楽準備室の整理だか何だか知らないが、生徒が足を踏み入れない場所は教師がやれと言いたい。だが、それを言うには俺の学校での地位は低すぎて、黙々とタンバリンやらギターやらを片付けていくしかなかった。

「お前、考えてること丸分かりだぞ」

 その声に後ろを振り向くと、準備室のドアに周防が笑いながら寄りかかっているのが見えた。その手には煙草があって、この不良教師がと怒鳴りそうになる。が、なんとか寸前でそれを堪えた。

「俺とは、一秒でも一緒にいたくありません、みたいな」

「……これでいいすか。結構片付いたと思いますけど」

 手に持っていた縦笛を建て付けてある棚の一つに仕舞うと、ここに入った時よりは大分マシになった。気付けば片付けを始めて1時間が過ぎている。そろそろ日も暮れてきて、夕日の差し込む音楽室なんていうメロウな場所にこれ以上長居したくなかった。

「ああ。悪かったなこんな時間まで」

「イエ。そんじゃ」

 そう言って準備室のドアを抜けようとしたところで、クククという笑い声が聞こえた。つい横を向けば軽く俯いて笑っている周防がいて、本気でその顔を殴りつけてやりたかった。

「――お前、ほんっと分かりやすいのな。俺に振られて、俺を見てるだけで嫌なんだろう?」

「…分かってんなら、俺に音楽委員なんてケタクソ悪いもん押し付けないでくださいよ」

「勘違いしたのはお前だろ?俺はもともと外した奴を委員にするつもりだった」

 ク、と人を馬鹿にするような笑みをその顔に浮かべ、周防は俺の顔に向かって煙草の煙を吐き出した。間近で吹きかけられたせいで一瞬目を閉じてしまう。その隙に準備室のドアが閉められる音がして、目を開けた時にはそこは密室だった。

「……どーゆーつもりですか」

「お前が望んでたことを、やってやろうとしてんだよ」

 声をあげる暇さえなかった。
 そう言われた途端にガッと顎を掴まれ、噛み付くように口付けられる。そのまま準備室のグランドピアノに押し付けられて、頭にガツンと衝撃を感じたのと同時に制服のボタンが一気に引き千切られた。
 無遠慮に胸や腹の上をまさぐる周防の指。なのに、その指先はどこまでも冷たくて、その感触に鳥肌が立つほどゾッとした。
 こいつは、頭も体も冷えたまま、動作だけを乱暴にしているだけだ。
 周防が激情にかられてこんなことをしているのだと思わせるために。

 俺に、周防自身を嫌わせるために。

「…ハハ…ハッ…」

 いっそ笑えてしまう。
 このどこまでも残酷な男は、どこまでも優しくて、傲慢だ。
 周防を思うことすら、俺の自由にさせてくれないなんて。

「…もういーよ。分かったから」

「……穂積」

 何故か涙まで出てきて、それを隠すために左手で顔を覆った。
 目を閉じると目尻に溜まった涙が頬を伝って流れて、その感触がやけにリアルだと思った。

 

「ちゃんと、忘れてやるよ」

 

 体を起こし、左手を顔から外す。
 そうして、周防に顔を向けて笑ってやった。


 涙を流しながら、みっともなく、笑ってやった。

 

 


 

                                                   End.



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