後編


 

 ゆらりとチハルの身体が傾いで倒れこむのを、ウッドロウは焦ることなく支えた。それからすぐに驚いた顔をしている刑務官の鼻に香をしきつめた匂袋をつきつけると、刑務官はそのままドサリと床に倒れた。刑務官の身体を支える気は毛頭なかった。
 この懺悔室とでも言うべき部屋は、囚人のプライバシーへの配慮のため、監視カメラはテーブルと椅子に向かって一台取り付けられているだけだ。つまり、カメラはドアがある壁に取り付けられていて、ドア側の一定区間はカメラの死角となっていた。そのことを誰より知っているのは、当然この部屋へもっとも足を運ぶウッドロウ自身だ。

「…さて」

 そう呟いて、ウッドロウは手早くチハルの着衣を脱がせ、刑務官も同じようにする。そして、チハルが着ていたものを刑務官に着せ、刑務官の制服をチハルに着せた。
 放射状に広がったこの刑務所は、中央の管理棟から360度コンピュータと看守の目によって監視され、これまで一度も脱獄犯が出たことがない。その所為というべきかお陰というべきか、ここの刑務官は同僚の怠慢に甘いのだ。多分、この刑務官が帰らないことを不思議がった別の刑務官が来るまでは5分はある。
 そして、神父は当然、コンピュータからも看守からも、囚人のように監視される立場ではない。

 その顔からは想像もできないほど軽々と、ウッドロウは刑務官の服を着たチハルを腕に抱く。そして、部屋を出ると、刑が執行される部屋がある方へ早足で歩を進めた。
 部屋の前を通り過ぎようとしたところで、当然のように部屋の前に立っていた刑務官に呼び止められた。

「…ウッドロウ神父、でしたよね?どちらへ?というか、彼は…?」

「懺悔室で、乃木さんとこの人が倒れたんですよ」

 神妙そうにそう言うと、その刑務官は目を見開き大きな声を出した。

「乃木って…まさか!?」

「ええ。この後刑が執行される予定だった奴です。それで…そいつは重くて俺には抱えられそうにもなかったんで、この人を先に休憩室に連れていこうかと…」

「そ、それはすみませんでした。ではこれから私が懺悔室の方へ向かいますので」

「…お願いします」

 軽く頭を下げ、刑務官が向こうへ走っていったのを見届けてから、ウッドロウは休憩室へと向かう。――いや、正確には、休憩室の向こうにある、神父や牧師、僧侶などの人間が出入りするための専用口へだ。
 あの刑務官が懺悔室へ着き、倒れているのがチハルではなく刑務官だと気づくのには、少なくとも10分はかかるはずだ。何故なら、彼は数日前にこの刑務所に赴任してきたばかりだから。だからこそ、今も部屋の前で警備をするだけで、本来の看守がするような囚人の管理には未だ当たっていない。それも当然だ、来たばかりの人間が100人近くいる囚人の顔と名前が一致するはずもない。そして、あれだけ焦っていれば、倒れているのが会ったばかりの同僚の一人だとはなかなか気づけないはずだ。己の口から、“倒れているのは乃木だ”という思い込みさえ与えられてさえいる。

「…ウッドロウ神父??え、彼どうしたんです?」

 そして、この、最後の砦を突破できれば、すべては、己の思い描いたとおりになる。
 ――思い描いたとおりに、してみせる。

「ああよかった。ちょっと、こっちに来てこの人支えてくれませんかね?」

「え?…はあ」

 ニコリと微笑めば、出口を警備していた男は容易くウッドロウの言ったとおりに動いた。虫も殺さぬように見えるらしい自分の顔の使い方を、持ち主であるウッドロウは誰よりも分かっている。出口のロックは、男が腰につけている小さな遠隔装置を動かせば外れる。囚人がここから逃げることは考えられていないために、この専用口は他の場所の鍵と比べてごくごく単純なものしか取り付けられていなかった。

「うわ、こいつどうしたんすか?…てか、誰だ……ッ!?」

 言い終える前に、スータンに忍ばせていた匂袋を男の鼻につきつける。花の香りで誤魔化しているこの匂いの正体は、即効性の強い吸引麻酔剤だ。普段は護身用に持っているこれがこんな風に役立つとは思いもしなかった。
 ズルズルと壁伝いに倒れる男を他所に、ウッドロウは男に支えられていたチハルを取り戻す。そして、男の腰にある装置のスイッチを押せば、ドアのロックが外れる音がした。
 フ、と小さく笑い、もう一度ウッドロウはチハルを両腕で抱えた。

 ドアを開けた先にあったのは、チハルと己を隠してくれるだろう、夜の闇だった。

 

 

「…ミカエル、ね」

 刑務所から既に数十キロ離れた公道を車で走らせながら、ウッドロウは小さく呟いた。
 後部座席で毛布に包まれた人間が言った台詞は、思いつきにしてはあまりに己に嵌りすぎている。
 ――煉獄の門番。
 それが、空想上の存在である大天使ミカエルに与えられている二つ名のひとつだ。門を訪れた人間が、煉獄の火で罪を浄化すべき人間かどうか、見極める者。

 浄火に焼かれる価値もない人間なら、地獄へ。そして。

「罪のない人間は、入れないんだよ」

 お前のように魂が清浄な人間は、絶対に。

 

 

 そろそろ、チハルは目を覚ます。
 あの薬は即効性はあるが、持続性はあまりない。
 目を覚ましたとき、チハルは何を思うだろう。何を、言うだろう。
 きっと、自分の身に何が起こったのか、この優しくて聡い人間は己が何を言わずとも気づいてしまうに違いない。
 そして、それに答えることのできる口を、己は持っていないのだ。
 ただ、死ぬべきでない男を連れ出しただけの、己には。

 ――けれど、とりあえず。
 この人間が、その優しさのためだけに、またあの牢獄へ戻っていかないように。



 その手のひらに、キスを。。

 

  

                                                       End.




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