静かに門扉を押すと、ギイと聴きなれた音がした。
 毎日のようにこの音を聴いていたのは、学校から帰った夕刻。まるで当たり前であるかのように、今この時も西の空には赤焼けて沈んでゆく夕日があった。

『――明日の5時、僕の部屋に』

 それだけ言って切れた兄からの電話。思いのほか楽しそうな声色に、行けば必ず何かがあるのだろうとは予想がついた。
 そして、それはきっと、1週間経っても現れなかった幼馴染絡みなんだろうと。

 一段一段階段を昇ると、ちょうど8段目で小さく軋む音がした。
 それは日高が中学に上がる前から変わらない音で、そういえば、年々その軋音は大きくなっているかもしれないと、階段を昇りきったときにはそんなことを考えていた。
 そして、廊下を歩きながら、左手首にはめた腕時計を見る。兄の部屋の前に着くと、ちょうどデジタル表示が5時を示したところだった。

「――兄さん、日高です」

 コンコンと二度ノックをして、ドアの外から兄を呼ぶ。すると、部屋の中から「どうぞ」という、どこか笑いを含んだような兄の声が聞こえた。
 ――開けたくなかった。けれど、ただひとつ。
 夏への思いだけで、日高は兄の部屋のドアを静かに開けた。

 不可侵で、絶対。
 それが、日高の夏に対する思いのすべてだった。
 だから、約束の日が何日過ぎても、日高は夏を疑ったことは一度もなかった。
 こっちに来ることのできない何かがあったんだろうと。そして、その何かが何であったとしても、きっと、夏は必ず日高の元へ来るだろうと。
 その、夏が己のところへ来てくれるという思いが、日高にその「何か」を考えさせなかった。確実に日高にとって良くないものであろうその「何か」を思って、夏を疑うことを、けしてさせなかった。
 なぜなら、信じていたから。
 日高は、夏が日高を好いていてくれることを信じているのと同じぐらいの強さで、確かに信じていなかった。あまりに夏に焦がれすぎていて、信じることすらできなかった。
 けれど、ただひとつ。
 唯一それだけは、日高は信じていたのだ。
 もしかしたら、己の母親のどんな言葉より微笑みより、それを信じていたかもしれない。
 もしかしたら、己自身より、信じていたかもしれない。

 ――愚かなことに。

 夏が己から離れることだけは、けしてないと。

 

 こめかみが、痛かった。
 心臓がそこにあるかのようにドクドクと血が流れる音がして、そのまま頭が破裂して死ぬのかもしれないと思った。
 呼吸が、できなかった。
 ここは本当に空気があるのだろうかと、酸素を上手く吸い込むことのできない口はカラカラに渇いていた。

 自分の体のどこもかしこも、動かなかった。

「やあ、日高。時間どおりだね」

 兄の顔は、何時になく嬉しそうに見えた。
 そんな表情の兄を見たのは、一体何時ぶりだろうかと頭の隅で考える。だが、そう考えたところで、その数秒後には何を考えていたのかもう日高には分からなかった。

「ごめんね、こんな格好で」

 白い、まるで透けてしまいそうに白い、兄の肌。
 そして、簡単に折れてしまいそうな首と手足。



「さっきまで、夏くんとセックスしていたから」



 兄の隣には、もう見慣れてしまった、幼馴染の綺麗な裸。

「…僕が日高を呼んだイミ、分かったよね?夏くんは、日高のトコには行かないよ」

 そう言ってにっこりと楽しそうに微笑む陽を、日高は一瞥もしなかった。そのことを気にとめることなく、陽は面白そうに日高を見上げる。そして、小さく笑ったかと思うと、日高が見つめているただ一人の人間に抱きついてみせた。

「ね、夏くん。日高が夏くんに何か言いたそうだよ?」

 下から覗きこむようにして、陽は夏に話しかける。それでも夏は伏せた顔をけして上げようとはせず、陽はそんな夏に笑いかけながら、その華奢な手でクイと夏の顎を上げた。
 否応なしに、夏は日高の顔を見ざるを得なくなる。
 ――だが、視線を向けた先にあった日高の顔に、夏は息を止めた。

「ヒダ…カ」

 日高は、もう夏を見てはいなかった。
 陽の部屋の窓から見える夕空を、瞬きもせずにただじっと見ていた。
 すると、表情を変えることなく、日高の目から涙が零れ落ちる。
 後にも先にも、日高が泣いたのはこれが最後だった。

 ――遠くで、鴉が啼いた。

「…二度と、アンタ達には会いにこねえよ」

 日高に呑まれるように見入ってしまっていた陽は、その声にハッと我に返る。そして抱きついたままの夏を見上げると、夏は、目を見開いて日高を見つめたままだった。
 そんな夏と、日高の視線が初めて合う。
 ぶつかった視線は、過去に幾度となく交し合ったそれと重なることはけしてなかった。

 何も言わず、日高は陽の部屋から出る。階段を降りると、運の悪いことにちょうど父親が帰ってきたところだった。

「何故ここにいる!?」

 階下からそう怒鳴る父親に、日高は温度のない双眸を向ける。何時になく冷たい子供の視線に驚いたのか、父親は1階に降りた日高を見て小さく息を呑んだようだった。

「今日限り、帰ってきません」

 初めて聞いた、日高のあまりに低すぎる声色に、父親はさらに息を呑む。だが、そんな父親のことなど忘れたかのように、日高は父親の横を通り過ぎて玄関へと向かった。

 

 門扉を閉めて外に出た途端、日高は吐いた。
 ここ1週間ほとんど物を入れていない胃から出るのは黄色い胃液だけだったが、それすら吐き出してしまいたいとでも言うように、日高は嘔吐を繰り返した。
 下に向けていた頭に血が上って、どんどん頭が重くなり、目が見えなくなる。そうだ、このまま死んでしまえ。そんな幻聴まで聞こえたような気がして、日高は笑った。もう吐き出すものもない空っぽの胃から、何もかも、一滴残らず己の体に残るなとでも言うように、大声で笑いながら吐き続けた。


 そして、吐くものも、笑う気力さえも尽きて、日高は思うのだ。

 ああ、これでもう、俺には何も残っていない。
 矢代日高という人間など、もういない。
 もう、死んだ。

 クククと声に出さずに笑い、涙も流さずに泣く。


 死んだ体に残るあたたかな記憶が、あまりに疎ましいと。

 

 

 

 ドサリと、母親が暮らしていた畳部屋に倒れこむようにして横になる。
 うつぶせた畳からは、藺草のどこか懐かしい匂いがした。
 ――このまま眠ろう。眠って、しまおう。
 眠りの中だけに、日高の安息があるのだから。

 目を閉じると、一瞬で世界は真っ暗になる。
 当たり前なのに、なぜかそのことが酷く嬉しくて、日高は眠る前に小さく笑んだ。

 

 意識を閉ざす直前、遠くで呼び鈴が鳴ったような気がした。

 

 

  

                                                  第一部 完

  



HOME  BACK  TOP  

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送