生まれたときから、己の役割は決まっていたようなものだ。
 兄の上を行くことのないように、目立たず、兄の背中だけを見て歩くこと。それが、小学校に入って初めてのテストで日高がトップを取った時に、父親が日高に向けた態度で決まったことだった。
 それが崩れたのは、兄の体が思いのほか弱いことが分かったとき。日高が小学4年、兄が中学1年の時だ。兄は、もはや都心の汚れた空気の中で暮らすことが無理になって、東北の山間にある中学に転校し、高校もそのまま同じ学校に進学した。療養所と学校を行き来する生活は兄にとってけして辛くないものではなかっただろうが、兄はけして泣き言を言うことはなかった。年に1、2度家に戻ってきた時は、いつもあの朗らかな笑みを浮かべていたように思う。
 だが、あの笑みの下に兄はいろいろなものを隠していたんだろうと、今ならば思うことができた。

 大勢の人でにぎわうホームで、日高はぼうっと電車を待つ。時間まではまだあと10分ほどあったが、待つ以外日高にすることはもうなかった。
 昨日の夜、母親に言われるがまま必要最低限のものだけをトランクに詰め、父親が戻ってくる前にと家から送り出されたのが今朝。いろいろなことがあまりに目まぐるしく日高の周りで起こり過ぎて、本当は何も起こっていないんじゃないかと錯覚しそうにすらなる。だが、日高が今いるこの場所がそう錯覚させることは許さなくて、頭上を流れるアナウンスが日高を現実に呼び戻した。
 そういえば、朝から何も食べていないことに気がつき、日高は近くの売店へ向かう。食欲はないが水だけでも飲もうとペットボトルを買って、トランクを置いた所へ戻ろうとしたところで日高は息を呑んだ。

「…ツ…」

 トランクの上に腰掛けて、日高を見る一人の人間。
 日高が焦がれて止まない、ただひとりの、幼馴染。
 その幼馴染はふわりと微笑んで、そして、トランクの傍まで戻った日高の腰にぎゅうと抱きついた。

「ひどいよ日高。俺に黙って、どっか行こうとするなんて」

「…夏」

「すぐ…行くからね」

 その台詞に、日高は目を見開く。だが、すぐに開いていた目を伏せて、それから夏の髪をやさしく撫ぜた。

「知ってる」

 ――そうだ、己は、知っている。
 この幼馴染は、絶対に、己から離れないことを。そしてそのことを、日高自身、この世の何より信じていることを。
 信じてはならないのだと思いながらも、それでも、何よりも信じてしまっていることを。

 

 3日後に。
 そう言って抱きしめられて、日高は電車に乗った。閉められたドアから見えた夏の顔がひどく疲れているように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
 ガタンガタンと、電車が揺れるたびに窓から見える景色はどんどん移ろってゆく。見慣れた街の景色が見慣れないそれに変わって、日高はドアに寄りかかりながら静かに目を閉じた。
 ――陽と日高。兄弟そろって夏という一人の人間にイカれている。それが愛情であれ執着であれ、過ぎた情は夏をどうしようもなく疲れさせてしまっているに違いない。もともと他人からの好意を、否が応でも向けられるだけ向けられてきた人間なのだ、夏は。そして、それに疲れ果てていた夏を誰よりも傍で見てきたのは、他の誰でもない、日高自身なのだから。

『早く、二人になりたいよ』

 そう、繰り返すように言っていた夏。驕りでも何でもなく、日高は夏が己に向ける情が、己以外の誰よりも深いことを知っている。普段の冷酷さとは程遠い、深くてあたたかな。それでいてどこまでも澄んだ情を、夏は日高にくれるのだ。
 それは、夏という男のすべてを欲しがるような浅ましい自分にとって、多分自分の存在すべてより大事だと思えるものだ。この感情はきっと、夏を好いていた人間であれば誰もが思ったものだろう。誰もが欲したものだろう。
 そして、夏が日高を好いてくれたのは、ただ自分が夏にもっとも近しかったからだと日高は信じて疑わない。夏自身すら気づいていないだろうその清浄さを、あまりにその傍で欲しがられたから、夏は日高のそれに絡め取られただけなのだと。
 ――だとすれば。
 もしかしたら、そんな日高ですら想像もつかぬほどの底なしの深さで夏を求める兄を、夏は。
 血のついた兄の手を取った夏は。

 兄の狂気は、夏を取り込んでしまうのではないか。

「―――ッッ」

 違う、違う、違う―――。
 そんなはずはない。夏が、己から、離れるはずはない。

 そう心の中で繰り返し唱えながら、日高は目を開ける。
 見えたのは、己の生まれた街ではない景色。
 夏の、いない場所。

 何故か恐怖にも似た何かが日高の背中を駆け上る。
 生まれて初めて幼馴染と離れているという今に、確かに、何かが壊れていく予感がした。

 

   

 ――3日後、夏は来なかった。

 4日経っても、5日経っても。

 夏は、日高の元へと、来てはくれなかった。

 

 




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