「どうして陽に怪我をさせた!?」

 家に入った途端、そう怒鳴られたと同時に頬を張られた。目の前で息を荒くする父親を日高が呆然と見上げると、もう一度平手が飛んでくる。構えもせずに殴られたせいで、口の中が切れた感触がした。
 訳も分からず、目を伏せながら父親の胸のあたりを見遣る。すると、その後ろに立っている陽と母親の姿が見えた。
 その姿に、日高は目を見開く。
 左腕に包帯を巻いていた陽は、その顔に確かに笑みを浮かべていた。
 その笑みに、そういうことかと、日高はあと少しで笑い出してしまいそうだった。

「何してるんですか!?」

 だが、ぐいと後ろに引っ張られて誰かに抱きとめられる。そんなことをする人間を、日高はひとりしか知らない。

「…夏君、日高を離しなさい」

 夏の存在に、父親もやっと我に返ったのだろう。激昂していた顔が少し緩み、口調も穏やかにそう言った。

「離しません」

「……夏君、その子は陽を突き飛ばして、怪我をさせたんだ」

「日高はついさっきまで俺と一緒にいました。そんなことをできるはずがない」

「…君と出かける前のことだ」

「日高と俺は、学校から一緒に帰って、それからずっと俺の家にいましたよ」

「………」

 夏のその言葉に、さすがの父親も眉間に皺を寄せる。それもそのはずだ、夏の言葉が真実なのだから。
 ――だが、日高は知っているのだ。真実は、この父親にとってどうでもいいということを。父親が大事なのは、父親が愛してやまない兄が、日高に怪我をさせられたと言った、ただその事実だけなのだということを。
 だから、この後に父親が何を言うのかも日高には想像がついていて、それが父親の口から放たれる前に、日高は父親に向かって口を開いた。

「父さん、俺はこの家を出ます」

「…何?」

「滑り止めに、京都の大学を一つ受けました。そこに行きます」

 そう言って、かすかに微笑んだ日高に、父親は怪訝そうな、それでいて安心したような表情をその顔に浮かべた。そんな父親に、日高は心の中で、これでいいんだろう?と問いかける。
 この家で、父に必要なのは陽と母の二人だけで、何時だって己は不必要なものだったのだ。
 いや、もしかすれば陽一人だけが父親にとって必要なのかもしれないとさえ思ったこともある。だが、時には父と母が穏やかに話している姿もあったから、きっと、父なりに母を愛しているのだろうと。
 本当は受けるつもりもなかった大学を受けたことを、今初めて良かったと思える。
 母親の、今は人ひとりいない実家があるあの美しい街の大学を、たとえ思いつきでも受けていて良かったと。

「…じゃあ、今日は夏の家に泊まります。おやすみなさい」

 父親に向かって浅く礼をして、ついさっき入ったばかりのドアから外へと出る。踵を返す直前にひどく辛そうな表情をした母親の顔が見えたが、そんな母に向かって己は笑えていただろうかと日高は思った。



 夏の部屋に入るまで、いや、部屋の中に入ってからも、夏はずっと何も話さなかった。そんな夏を日高はしばらく無言で見つめて、そして静かに夏の体を抱きしめた。

「…ごめんな、夏」

 夏が、その身を呈してまで守ってくれたあの家での己の生活を、日高は自ら放棄してしまった。
 今でも、日高はあの家から出ると言ったことを後悔はしていなくて、ただ、己の生活を守ろうとしてくれていた夏と、そしてあの家でのたった一人の味方だった母を悲しませたに違いないことだけが、日高にとって後悔と言えるものかもしれない。

「俺も、行くからね」

「…え?」

「一緒に受けたでしょう、あそこ。だから、俺も一緒に行く」

「ナ、ツ」

 駄目だと、そう言えない自分はどこまでも愚かだ。
 愚かで、哀れで、どうしようもなくて。
 だが、それでも。世の中のありとあらゆるものに背かれ、詰られても。

「夏…っ」

 夏が、己を好いてくれるのなら、それだけで。

 

 体が、折れてしまうような強さで、抱きしめ、抱きしめられる。
 今だけ、今この時間だけは、世界はここで閉じるのだ。
 ドクドクと鳴る、夏の心音だけを聞いて、耳元にある夏の呼吸だけを感じて。
 なんて、幸せな時間だろうか。

 なんて、哀しい時間だろうか。

 

 カチャ、とドアが開く音がする。
 その音で、まるでそうなることが当たり前かのように日高と夏の空間と時間は外に開いて、そして。

「―――陽兄さん!!」

 きっと、もう閉じることは、ないだろう。

 

「な、んで…どうして…!?」

 ドアの傍に崩れ落ちるように倒れた陽を抱え起こして、日高は陽に問いかける。
 そんな日高に陽はついさっき見せた、綺麗とは言えない笑みを浮かべ、そして日高の隣に立つ夏に向かって口を開いた。

「ヒ、ダカ、に、された、って、言うから」

「―――っ」

「夏、くんが、僕から離れる、なら、僕は、何度だって、こうする…!」

 

 

 それからのことを、日高は、ほとんど覚えていない。
 階段を駆け上る音、救急車のサイレン、耳元で怒鳴る誰かの罵声。そんなものが途切れ途切れに記憶に残るだけで、気づけば、実家の居間のソファに座っていた。
 そこに、電話が鳴る。
 隣に腰掛けていた母が電話を取って、そして、言葉少なに電話を切った。

「……もう、大丈夫だそうよ」

 そう言って、母は日高の肩を抱く。その温かい腕に体が震えそうになるのを、寸でのところで日高は堪えた。

「…私の実家に、行きなさい」

「………」

「ここじゃ、貴方を守ってあげられないけれど、あそこなら、貴方を守ってあげられる」

「…母さん」

「…ごめんねえ日高、こんな不甲斐ない母親で」

 顔を伏せ、涙を流す母親に、日高は小さく笑む。
 そうだ、自分にはこの人がいる。こうして自分を思ってくれる人が、自分にはいるのだと。

「…いいんだ、母さん。分かってたから」

 ぽんぽんと母親の背中を摩り、日高は穏やかにそう言う。そんな日高に母親は声を詰まらせるようにして、そして小さく声をあげて泣いた。
 そんな母親の肩を抱き、日高は目を閉じる。

『い、っしょに、来て…』

 血を流す左腕を、震えながら伸ばした、兄。
 そんな、今にも泣き崩れそうなか細い兄の腕を、掴んだのは――。

『陽、さん』

 ――夏。

 

 




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