久しぶりに、一人で学校に登校し、一人で帰途に着いた。
 思えば18になった男二人が、まるでそうすることが当たり前のように一緒に登校し、そして一緒に家に帰っていたのは恐ろしく不自然だったように思う。
 部活だったり自習だったり、ましてや高3ともなればすることはたくさんあって、誰かと一緒に過ごすためには相当の努力がいるようになる。それは日高も夏も同じことで、にも関わらず夏と共にあることは、もしかしたら受験さえ比べものにならないぐらい日高にとって当たり前のことだったのだ。

 ハ、と声に出さずに小さく笑う。
 その当たり前のことが、夏にとってもそうだったろうことに確信を持っている自分は、多分どこまでも馬鹿でしかないのだろう。
 今こうして独りで歩いていることが恐ろしく不自然に思える現実の方が、日高にとっては当たり前なのだから。

「日高」

 ――だから、己の名を呼ぶ声が後ろから聞こえても、そう驚くことができなかったのかもしれない。

「…よお、夏」

 顔だけを後ろに向けてそう言うと、夏はやはりというか何の表情も浮かべていなかった。
 どうやら、恐ろしく怒っているみたいだなと、日高はどこか他人事のように内心独り言ちる。だが、その表情のない夏の顔があっという間に日高のすぐ傍まで来て、そして当たり前のように日高の腕を掴んで歩き出した。身長の差の分、夏が早足で歩けば日高はどうしても小走りにならざるを得なくなる。普段ならけして日高をそうさせることのない夏がどんどん歩みを早くしているという事実に、これは相当機嫌を損ねたらしいと日高は思った。

 

 バン、と乱暴にドアを閉めたかと思うと、夏は日高の背をそのドアにどんと押し付けた。そして覆いかぶさるように、両手を日高の頭の両脇につける。

「なんで一人で帰ったの?」

 聞かれるだろうと予想していたことが一字一句そのまま夏の口から発せられて、日高は思わず微笑んだ。すると、それを見た夏が珍しく怒りの表情をその顔に浮かべた。

「日高、答えて」

「…さあな」

「日高」

 ぐいと、夏の顔が日高のそれに近づけられる。鼻同士が触れ合うほど近付いた夏の双眸は、やはりいつ見ても綺麗だと思った。

「まさか昨日のことが原因じゃないよね?」

 だが、その口から絶対に聞きたくなかった台詞が発せられて、日高は思わず目を見開く。
 お前が、それを言うのかと。

「俺、いつも言ってるよね。俺が好きなのは日高だけだからって」

「―――」

「日高のお父さんのことがなかったら、俺はあの人と話すことさえきっとしない」

「…夏」

「早く、二人になりたいよ日高。…日高を、俺のものだけにして、日高が気にしてるお父さんのこともお兄さんのことも、全部日高の中から追い出して、俺でいっぱいにしたい」

 ――このまま。
 このまま、時が止まって、世界が閉じてくれたら。
 そうしたら、夏とふたり、ただただ幸福な時間をずっと過ごしていけるだろうに。

 どうして、時間も空間も、俺と夏だけにとどまってはくれないんだろう。

 ドアにつけていた背を離し、日高は夏の肩に顔をもたせかける。
 すると一瞬夏が驚いた空気が伝わったが、それはすぐに普段のそれに変わって、夏の腕が日高の背中に回された。

「…ごめん、夏。一人で帰って」

「……もう、二度としないで」

「ああ。しない」

「…日高がいなくなったら、俺生きてけないよ」

 思わず、ひゅっと息を呑んだ。
 あまりに切実に紡がれた夏の言葉は、日高の心の奥底にもうずっと昔から存在し続けていたものだったから。
 ――どうして、どうして俺らはこんなに悲しいんだろうな、夏。
 そう心の中で呟いて、そして日高は夏の背中に腕を回した。回した背中の変わらなさに、日高は泣いてしまいそうだと思った。

 

「…夏くん?」



 コンコンとノックの音がして、聞こえてきた声に日高は咄嗟に夏から離れようとした。だが、日高がそうすることを許さないかのように夏は日高の肩をぐっと掴み、もう一度さっきと同じように抱きしめた。

「夏くん、入るよ?」

 ガチャと音を立てて夏の部屋のドアが開く。
 部屋のドアを背にしていた日高には、ドアを開けて入ってきた陽の顔を見ることは叶わなかったが、陽が浮かべるだろう表情は容易に想像できた。
 後ろで、小さく息を呑んだ音がする。
 きつく目を閉じながら聞いたその音は、まるで頭上を通り過ぎる飛行機の轟音のように耳に響いた。

「何か用ですか」

 そこに、夏のどこまでも温度の低い声が響く。己を抱くこの幼馴染が、その柔らかな雰囲気からは程遠い冷酷さをその体に秘めていることを、あの兄は知っていただろうか。

「…ねえ、夏くん」

「はい」

「僕が君を好きだと言ったこと、忘れてないよね?」

「―――」

「忘れるはずないよね、君は。…だって」

「陽さん」

 夏の声は、心なしか咎めるようなものだったと思う。
 それを珍しいなと思い、そこで、日高の記憶は途切れている。
 いや、途切れているのではない。
 そのほとんどを思い出すことができないのに、失くしてしまいたい記憶だけは残っていたのだから。




 ――ケホ、と渇いた咳が出た。
 どうやら空気が乾燥しているらしいなと、日高はブルゾンの襟を立てて半分顔を埋める。そこにビュウと吹いてきた風は冷たくて、なのに日高はそれに構わずキイとブランコを漕いだ。
 ゆっくりブランコを揺らしながら、そういえばどうやってここまで来たんだろうかと思う。だが思い出そうにもその辺りの記憶はすっぽりと抜けてしまっていて、日高は考えることを放棄した。

「――ハ」

 そして、思うのだ。それなら。と。
 ――それなら、全部忘れさせろよ、と。

 “あれ”を、現実のものとして受け容れるには、日高はあまりに脆かった。
 いや、日高自身が脆いのではない。
 夏が日高を好きだという事実を日高は何より信じていて、そして、何より信じることができなかったというだけだ。
 そうするには、あまりに日高は夏に焦がれ過ぎていたから。

 

「だって君は、僕を抱いた」

 

 そう、兄は夏に言った。
 そして夏は、あれほど離そうとしなかった日高の体を、呆気なく離した。

 

 




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