「やめろ、秋之」

 いつの間にか夏から離れた日高が、秋之に近づいてその手を握る。そんな日高を胸に抱きこみながら、それでも、秋之は止めるつもりはなかった。

「教えてやるよ、何も知らないで生きてたアンタに」

「秋之!」


「こいつは、こっちに来たその次の晩手首を切った。お前がこいつを捨てて選んだ兄貴のやる狂言じゃねえ。何度も何度も、抉るように動脈に届くまで切りやがった。誰もいねぇ、鍵かけた浴室ん中で。俺がたまたま来なきゃ、こいつは確実に死んでた」


 それは、憎悪では言い表せない程の、視線。
 嘘でも何でもなく、本気で「消えろ」と言っている、秋之の二つの目。
 だが夏は、その殺意にも似た双眸を忘れた。記憶にも、残せなかった。

「ヒ、ダカ…?」

 どうして。
 どうして、どうして。どうして。

「日高…っ」

 どうして、何を捨てても、自分自身を捨ててさえも守りたかった人が。

 

『日高にされたって言う』

『僕は何度でもこうする』

『日高に会いに行ったら死んでやる』

 

『何度も何度も、抉るように動脈に届くまで切りやがった』

『誰もいねぇ、鍵かけた浴室ん中で』

『こいつは確実に死んでた』

 

「いいんだ、夏」

 恐慌する夏の心を読んだかのように、そんな日高の声が響く。
 視線を向けた先には、もうずっと焦がれ続けた幼馴染の冷たい笑みがあって、その笑みに、夏の中で何かが壊れた。

「もう、ここには来るな。兄さんは、お前のことになると自分を傷つける」

「ヒ、ダカ」

「お前が誰も死なせたくないのは、分かってる。それに…俺がああしたのは、お前のせいじゃない。俺が弱かったからだ。だから、もう俺には会いに来るな」

 

 夏が、盲目的に日高しか見なかったのは、日高だけが夏を見てくれたからだ。
 母の死と引き換えに生まれた自分の生を、いつからか疎ましくしか思えなくなっていて。そんな己を、生きさせてくれたのは紛れもなく日高だけなのだ。
 初めは、隣で日高が笑ってくれるなら、それだけでよかった。
 けれど、気づけばどうしても欲しくて。欲しくてたまらなくて。奪うように日高を抱いた時、日高はまだ精通もしていなかった。
 なのに、それでも日高は己の傍にいてくれた。
 いつだったか、日高が己の顔を見てマリアと言っていた。
 ――けれど、違う。
 マリアは、日高だ。どれだけ穢そうとしても、けして穢れない。その清冽さを、夏は誰より知っている。
 その証拠にどうだ。あのやわらかな笑みは見せてくれなくとも、その言葉はどんなに冷たくとも。話す内容はどこまでも夏を思うそれでしかないのだ。

 

「日高、先部屋行ってろ。真っ青だ」

 そう言って、秋之は日高の額に手を当てる。その手を当然のように受け止める日高は、間違いなく夏の胸をジリと焦がした。

「…大丈夫だ」

「いいから行け」

「いい。どうせ眠れない」

「こいつ帰したら抱いてやるから、行けって」

「…わかった」

 喉の奥から声がせり出るのを、咄嗟のところで堪えた。
 だが、廊下の奥に消えていった日高に、カタカタと体が震え出すのを抑えられない。奥歯を噛み締め、拳を握ってそれに耐えたところで、ここにいるのは日高を抱くと言った男だけ。
 そして、心が暗く掻き乱される己だけ。

「――で、アンタは何しに来た?本当にただ日高に会いに来ただけじゃねえんだろ」

「……日高の、母親から、預かった物を届けに」

「ああ、伯母さんか」

「…これを日高に、渡してくれと」

 そう言って、預かった通帳と手紙を秋之に差し出す。
 まだ十代だろう少年は、年には似合わぬ冷め切った雰囲気を持っていて、きっとこれが地だろうと思った。
 そして過去の己のように、日高が関わるときだけ忘れた情を思い出すのだろうと。

「確かに。じゃあ、これで」

 目で、早く出て行けと言う男に、今の夏は嫌だという口を持たない。
 これから幼馴染を抱くだろう男を、めちゃくちゃにしてやることさえ、今の夏にはできない。

 血が滲むほど両手を握り締めながら、夏は踵を返す。
 敷居を跨いだところでかけられた言葉に、できることなら。

 

「あいつが、女だったらって、思ったことないか」

「………」

「そうしたら、孕ませて、結婚して、縛り付けてやれるのにって」



 できることなら、家の中に戻って。 

 



「あいつの中にぶちまける度に、俺はそう思う」



 

 男を、絞め殺してやりたかった。 




 



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