目覚めると、隣にいた人は既にいなかった。手を伸ばしても、そこにあるのは冷たいシーツだけ。ぬくもりのないそこはずいぶん前に彼の人がここを去ったことを示していて、日高は気づくことなく眠っていた自分に呆れ返った。
 締め切っていたカーテンを開けると、朝のものではありえない太陽の光が差し込む。眩しさに目を顰めながら窓を開けると、冬の冷たい空気が入り込んだ。
 気づけば半日以上眠っていたらしい。眠りすぎた頭はどうにも思考をぼんやりさせる。顔を洗う前に水でも飲むかと台所に行くと、テーブルの上には春加が作っていったのだろう朝食と、一枚の書き置きがあった。

“近いうちにまた。昼には秋之が来る  春加“

 一週間は向こうにいる予定だった筈の子供が、一日でこっちに戻ってくる、ということは。

「…俺のせいか」

 フ、と小さく自嘲する。
 親子揃って途方もなく自分に甘い二人が日高は誰より愛おしいが、それでもどうしようもなく疎ましかった。けれど、その言い方は正しくないのだろう。日高が疎ましいと思うのはけして彼らではなくて、今でもこうして甘やかされる成長しない自分なのだから。
 ――そこに、ジー、と呼び鈴が鳴った。
 もう帰ってきたのかと思いながら、日高はゆっくり玄関へ向かった。いつもはしない出迎えをしようと思うぐらいには、今は秋之が欲しかった。

 なのに。



「……久しぶりだね」



 ガン、ガン、と頭を鈍器で殴られたような頭痛がする。
 その鈍い痛みに目が霞み、床がぐにゃりと曲がったように感じたと同時に、日高は2本の腕でその体を支えられた。

「大丈夫?」

 触れられたその部分が、否応なしに熱を持ち始める。
 容赦ない痛みと、熱さ。それから、ぼやける視界。自分の五感が確実に狂い始めていて、一体どうすればいつもの己に戻れるのか分からない。弱ったらしい自分を、幼馴染に晒すわけにはいかないのに。

 ――けれど。

「日高」

 呼ばれた名に――いや、己の名前を呼ぶその声に、日高は急激に己を取り戻した。
 もう思い出したくもないあの夕暮れ。己が死んだあの時に、最後に聞いたのは、一字一句違わず、その声、その言葉。

 そうだ。一体、自分は何をしている?何を、考えている?
 目の前の人間は、異母兄の情人。ただ、それだけ。

「…出て行け」

 昨日も、そしてついさっきも見れなかった夏の目を、真正面から見据えて冷たく告げる。そんな自分に幼馴染は何も返さなかったが、もう何もかもがどうでもよかった。
 今となっては、己を支えるこの腕さえ疎ましい。それも仕方がないだろう?これは、あの時兄を抱いていた腕。その感触が高校の時にされたそれと全く変わらなくとも、この腕は、今は兄だけを抱いている。
 そう思ったと同時に、ゾワリと怖気が走った。
 まるで、あの白く華奢な兄の腕が己を抱いているように感じて。

「離せ」

 体を捩り、夏の腕から抜ける。だが、抜けたと同時に腕を掴まれ、日高はその腕の持ち主を冷たい目で見遣った。その目に幼馴染が目を見開いても、己の眸の色を変えるつもりはなかった。

「兄さんの男が何の用だ」

 十数年の時を共に過ごした自分の言が夏に与えるものを、日高はよく知っている。日高以外の誰にも動かされず、日高以外の誰にもその目を向けなかった幼馴染の感情を動かせたのは、あの時までは多分日高一人だったのだから。
 冷暗色以外の何色も乗せずに放った言葉は、そう表情を変えることのない幼馴染の貌を一気に白くさせた。
 その変化を、日高は見ているようでけして見てはいなかった。
 もう、あの時から、己と夏の視線は絡み合うことはないのだからと。

「…離せ」

 だが、それでも。
 それでも、目の前の人間をもう見ていたくはない。
 できることなら、二度と会いたくなかった。こうしてみっともなく生にしがみ付いている己を、綺麗な幼馴染には見せたくなかったから。
 そう、あの時、夏は日高を殺したのだから。

 なあ、夏。
 ここにいる矢代日高は、もう、お前の知っている男じゃ、ない。
 ――だから。

「日高」

 だから。お願いだから。

「…日高」

 そんな声で名前を呼ぶな。


 そんな、俺が愛した声で。


 

「手ェ離せ、殺すぞ」


 

「…秋之」

 どこまでも低い声に、声が聞こえた方を見遣る。
 戸口に立っていたのは、間違いなく、もうずっと会いたかった年下の子供。

 はやく、はやくその腕で抱きしめてくれと縋りそうになる自分を堪えながら、日高は秋之を見つめた。
 走って帰ってきたのだろう、少し息が荒い。そして同時に、普段表情をほとんど変えぬ秋之が激昂していることに気がついた。
 ――ふと、秋之と初めて会った頃を思い出した。
 綺麗な顔をした15の少年は誰にも何にも感情を動かされず、その様に、日高は誰かの姿を見た。
 その誰かが、今ようやく見えた気がする。
 秋之の向こうに見たのは、今自分の腕を掴む、幼馴染だ。

「その手、離せって言ってんだろ」

 秋之の低い声が響いて、日高はハッと我に返る。今は、過去に思いを馳せている暇などないというのに。

「…君は誰」

「アンタに関係ない。…とにかく日高から離れてさっさと出てけ」

「……日高に会いに来ただけだ」

「今更?ハッ、アンタは日高を捨てて兄貴の方を選んだ。会いに来たなんてどの口が言える」

 秋之の台詞に、夏はひゅっと息を呑む。
 だが、そんな夏に容赦する理由は秋之には何一つなかった。

「会いに来た?……ざけんな!ならなんで4年前に来なかった。日高がアンタのせいでボロボロだった時に、どうして来てやらなかった」

 

「アンタのせいで、こいつは一度死んだのに」

 

 

 



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