「…っツ…」

 体の節々がギシギシする。
 たかが数冊の本を抱え直しただけで嫌な痛みが背中に走り、日高は思わず呻き声を上げた。そういえば、椅子から立ち上がろうとした時には腰にも鈍痛が走ったことを思い出す。どれもこれも全部今朝の行為の所為だと分かる日高は、心の中でその相手に悪態をついた。
 図書館のエントランスに向かって歩き出すと、自習室内の机がいつもより人で埋まっていることに気づく。そういえば今は試験期間だったかと思いながら、日高は自習室を出た。

 今年無事卒業できることになった日高は、就職も決まり、ある程度暇を持て余す生活を送っていた。だが、こうなるまでには紆余曲折としか言いようのない数年があって、こうして暇な時間を楽しめるようになった今に日高は感謝している。
 2年前まで、自分を追い込まなければどうしようもなかった自らの精神のために、日高はけして健康的とは言いがたい暮らしをしていた。知識を頭に詰め込む作業が他の色々なことを忘れさせてくれると知っていた日高は、大学1、2年でほとんどの単位を取り終えた。
 だが、そのことが一因となって、残りの大学生活は他の大学生とは比べ物にならないほど自堕落なものになったと思う。というより、最初の2年の反動がある時を境に一気に来てしまったとでもいうべきか。まだ高校に入ったばかりだった秋之を強引にベッドに引きずり込んでは一日中戯れたなんてことはザラで、当時の己は恐ろしく爛れ切っていたと思う。その弱みもあって、朝から行為に及ぼうとする秋之を日高はけして止めることはできなかった。

 エントランス脇にあるラウンジに寄り、自販機でコーヒーを買う。街に溢れるカフェとそう味の変わらぬものが3分の1の値段で飲めるここを日高は日々愛用していた。時計を見るとまだ5時前だ。大学から車で5分もかからない場所にある自宅に今日は誰もいない。夕飯も大学の学食で済ませるかとラウンジを出ようとしたところで、エントランスがいつもより騒がしいことに気がついた。不思議に思って視線を遣ると、ちょっとした人だかりができていた。

「ひゃー…すごくない、あの人?」

「だな。あの辺の女の子みんな固まってるし」

 日高と入れ違いでラウンジに入ってきた男女の会話が耳に届くが、それだけでは喧騒の理由は分からない。とりあえずあの喧騒を抜けなければ図書館から出ることもできないと、日高は人だかりの輪を抜け、ぽっかり空間が空いているようなエントランス中央まで歩み出た。横目で見れば、そこには教授らしき中年の男と一人の学生らしき若い男がいて、ちょうどその若い男が日高の方を振り向いたところだった。

 ――音も立てずに、持っていた紙コップが床に落ちた。

 気づいた時には、走り出していた。
 床に零れたコーヒーも、己に集まる視線も、「彼」以外の何もかもが日高から遠かった。
 だって、しょうがないだろう?
 この4年、多分この世の何より飢えていて、この世の誰より切望していたものが、ほんの数歩先にあって。
 そして同時に、この世の何より捨ててしまいたくて、この世の誰より忘れたかったものが、手の届く距離にあったのだから。

 脇目も振らず走って、戻ってきたのは母の生家。日高の今の住処。ポケットから鍵を出そうとする手はどうしようもなく震えていて、ようやく取り出せた鍵も震える指から呆気なく零れ落ちていった。
 キーホルダーも何もつけていない鍵は、地面にぶつかって鈍い音を立てる。その音に何故か一気に我に返った日高は、そのままずるずると玄関先にしゃがみ込んだ。
 ――まるで、4年という時を感じさせない顔があった、
 ああ、そうとも言えないかもしれない。相も変わらず容赦なく人の視線を集める幼馴染は、日高が知るそれよりずっと凄絶な美しさを纏っていた。
 そういえば、過去に見た幼馴染の笑みは、まるでマリアのようだったか。
 もうその笑みから離れてずいぶん経つのに、今でも昨日のことのように脳裏に浮かぶそれは、日高にまざまざと残酷な現実を見せ付けた。

 ――全然忘れてなんかいないよ、お前は。

 頭の中で、耳元で、誰かが日高にそう囁く。

「…るせぇっ…!」

 ガン、と自分の拳を地面に叩きつける。
 かなりの痛みが拳に走ったが、この声を吹き飛ばしてくれるものなら痛みの方が遥かにマシだった。
 この、己自身が日高に囁く声を。

「アキノ…っ」

 ああ、どうして今秋之がいない。


 

「ヒダカ」




 ふわりと、名を呼ばれたと同時に抱きしめられる。
 抱きこまれた腕の中は慣れ親しんだ匂いがして、日高は無意識に目を閉じた。
 今「ここ」に留まっていられたのは、この人がいてくれたからだと。



 愛する母親の、ただ一人の弟。
 日高の叔父で、そして、秋之の父親。
 生きながら死んでいた日高を、救い上げてくれた人。


「ハル、カ、さん」


 目を開けた先にあるのは、ただただ甘く優しい笑み。
 その笑みに安堵して、日高はフッと意識を闇に落とした。

 

 

 

 ――夢を、見ていた。
 夢の中には、18の日高と、36の春加がいた。
 畳の上に仰向ける自分と、その脇に立ち竦む彼の姿に、ああ、これはあの日の光景だと日高はすぐに分かった。
 もう、自分は死んだ。そう思いながら、母の生家に舞い戻った、あの夜だと。
 あの時、ちょうど意識を閉ざそうとしたところで、遠くで呼び鈴が鳴ったのだ。
 けれど、その時の日高にはもう何もかもが遠くて。それを呼び鈴だと認識しようとさえせずに、そのまま眠ったのだ。

「起きなさい」

 そうだ。そんな日高を覚ましたのが、その声だ。
 明かりもつけずに和室に佇む彼の姿を見つけたとき、最初日高は人間とは思わなかった。
 そう思うには春加はあまりに人間離れしていて、その時の春加の格好もそう日高に思わせるのに一役買っていたとは後で気がついた。
 今思えば、暗色の和服を着ていた春加は、秋之が演じた文人そのものだったかもしれない。

 その、どこか退廃的な美しさを纏った彼の子供が己のただ一人の拠り所になることを、その時の自分は当然知らなかった。

 

 心を幼馴染に殺されたまま、空っぽの体で生きていた日高には。

 

 



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