式部夏という人間は、ただ視線を向けただけで相手を駄目にできる男だった。
 まだ陽が高校に上がる前、父親が夜話に話してくれたことがある。「隣の夏くん、小学校の卒業式でな、担任だった24の女教師から愛してるって言われたんだよ」と。そして、それを咎めるべき他の卒業生の母親までもが、似たようなことを叫んで夏に縋りついたとも。
 冗談としか考えられないその話を、陽はそのときは笑いながら聞いていた。だが、それが冗談でもなんでもないことを陽は知っていたから、内心その女たちを殺したくてたまらなかった。夏を見ることさえ汚らわしい女たちを。
 そして、その存在自体があまりに蠱惑にすぎる男は、今も変わらずまるで誘蛾灯のように人を惹き付ける。完璧すぎる顔と、けして崩すことのない冷たい人形のような表情をして。
 けれど、そんな人間は陽にとって虫けらにすらならないのだ。陽が何かしらの行動を起こすまでもなく、夏は自分以外の人間を傍に寄せ付けなかったから。
 この男の隣にいられるのは自分だけ。その事実に、陽は幾度狂喜したかしれない。

『俺は、貴方のものです』

 そう言って、その目で、その唇で陽を溺れさせる、己だけの美しい愛人。
 自分が望めば、その体さえ陽に差し出す男。
 なのに。

『……ヒダカ…っ…』

 その心だけは、けして手に入らない。
 男を失うぐらいなら、いっそ殺してしまおうとさえ思うのに。

 ――けれど、それでいい。
 そう、見ることも触ることもできない心など。

 それを手に入れられずにどんどん渇いてゆく己を知りながらも、陽はひたすら笑い続けた。

  

 夏が西の大学へ出向になったと言ったのは、その3日後だった。
 その事実に、陽は夏のそれと同じように見えないはずの自分の心が一気に冷えた感触が確かにしたが、そうさせた目の前の男はいつもと変わらぬ笑みをその顔に乗せていてどうすることもできなかった。
 その笑みで、一体何人の女が夏を欲したろうと思う。けれど、なぜかどうしようもなく人の所有欲を誘うこの男は、けして誰の物にもならぬのだ。彼と毎日のように抱き合う自分さえ、その体しか手に入れられない。
 この男のすべてを所有できるのは、ただ一人だけ。
 だが、その事実をもう何年も知っている陽は、己が生きている限りけしてそうはさせないと決めている。
 何重にもめぐらせた頑丈な鎖で、この美しい男を己から絶対に離さないと。

「もし、ヒダカに会いに行ったら、死んでやるから」

 ニコリと屈託のない笑みをのせて言った言葉は、およそ表情を崩すことのない夏の目を開かせた。――だが。

「…行きませんよ」

 そう言って陽を抱きしめた腕に、作った笑みは呆気なく壊れる。
 力の限り抱きついて、「絶対だからね」と言う。こらえきれずに流れた涙とともに放った言葉に、夏は何も言わずただ陽の背を撫ぜただけだった。

  

 

 

 寒い――。
 未明の京都は、どうしようもなく体を冷やすと日高は思う。けれど、この冷たさを日高は何より気に入っている。
 何時の頃からか日高自身もう思い出すこともできないが、朝とも呼べぬ日の出前の空気を浴びるのが日高の日課になっていた。
 最初は、たまたまだったと思う。
 あの時から変わらず魘される悪夢に眠ることすら億劫で、気づけば朝になっていることが少なくなかった頃。布団の温かさに何故か吐き気がして、たまらず障子を開けて廊下に出、廊下の先にある縁側の窓を開けてそこに腰掛けた。
 冷たい朝の空気はそれまで暖かかったはずの日高の体温を一気に冷やしたが、そのときの日高にはむしろ好ましくて。ひどかった吐き気も嘘のように去り、己の周りに広がるのは圧倒的な静寂。自分の肺が空気を取り込む音すら聞こえそうな静けさに、日高は目を閉じた。
 そして、気づけば夢も見ずに眠り、目を覚ましたのは太陽が高く昇った時間で。一体何日ぶりに完全な休息を得たんだろうかと自分でも驚くほど、世界のすべてがクリアだった。

 ――と、そこに聞きなれた声が聞こえた。 

「体冷える。…ったく何百回言っても聞かねえんだから」

「…お早う、秋之」

「……あのな」

 そう言ってハアと溜息をついたのが見なくても分かり、日高は小さく笑む。するとバサリと頭から毛布がかけられて、それと同時に後ろから抱きしめられた。

「毛布ごしでも冷えてる」

 ――出会った時は、日高の肩ほどしかなかった子供。
 その子供が、今では己を抱きしめることができるほど大きくなった事実に日高は今更ながら驚く。だが、その驚きはむしろ好ましいものだ。出会った時は冷たい視線を向けるだけだった子供が、こうして自分を好いていてくれる今に日高は感謝している。

「今日から東京だろ?あと1時間もしないで迎え来るんじゃないか?」

「…相変わらず時計がなくても分かるんだ」

「毎日太陽見てりゃな」

 そう言うと背中越しに小さく震えが走り、秋之が声を立てずに笑ったらしいことが分かる。
 他人に表情という表情を向けない子供が、ちゃんと自分の言葉に反応してくれることが少しこそばゆい感じがして。
 同時に、どうしようもなく一人の男を思い出させた。

「ほら、さっさと用意しろ。朝飯作っといてやるから」

 軽く後ろを振り向いてそう言うと、思いのほか近くにあった秋之の顔が静かに日高の顔に影を作る。やわらかく瞼の上に落とされた唇は、冬の空気のせいでいつもより冷たかった。

「…行きたくない」

 瞼から唇を離し、むすっとそう小さく呟やいた顔を可愛らしいと思うのはおかしいだろうか。
 スクリーンの中で背筋がザワリとするような演技を見せる男が、日高にとって手にかかる子供以外の何物でもないと思うのはこういうときだ。

「どうして」

「日高と離れたくない」

「1週間後にはこっちに戻れるだろ?」

「1週間も会えない」

 このままどんどん甘えさせることもできなくはない。誰にも甘えられずに育った子供が甘えられるのは自分だけだということを日高は知っているから。
 けれど。
 こうして自分に甘えてくれるだけの子供にしてしまうことは許されない人間なのだ、葛籠秋之という人間は。
 きっと、雪が溶けてなくなるころには、自分の腕からいなくなってしまうだろう。
 世界が、彼を欲しているから。

「……春加さん、待ってるんだろ」

 だから、多分今絶対に聞きたくはないだろう人間の名前をあえて出す。
 案の定体をビクリと強張らせ、それから日高を睨み付けた。

「ほら、行こう」

 そんな秋之の心を和らげるように、秋之の唇の端に軽く口付ける。少し驚いた顔をした秋之に笑みを向けて、縁側から腰を上げた。
 背中にかかっていた毛布がバサリと音を立てて落ちる。それを拾い上げようと体の向きを変えたところで、首の後ろに手が回された。

「……アキ…っ」

 名前を言い終えることもできず、唇が塞がれる。体ごと押し付けられた窓は背中越しにも冷たくて、何故かキスよりそのことに気を取られていた。そのことに秋之も気づいたのだろう。苛ついたようにスウェットの中に手を差し込まれたかと思うと、窓より冷えていたらしい秋之の手がスルリと日高の背を撫ぜた。

「―――ッッ…!!」

 ゾワリと鳥肌が立つ。そんな日高を秋之は小さく笑って、それからその冷たい唇を首筋に落とした。

「お、い…っ、迎えが、く、るだろ…っ」

「1時間後にね」

「秋之っ」

「……頼むから、入れさせて」

 何時の間にか上着はたくし上げられていて、わき腹に唇をつけていた秋之は上目遣いでそんなことを言う。
 その顔に、日高が何より弱いことをこの子供は十分知っているのだ。 

 十五だ。
 この子供が、日高を犯すように抱いたのは。
 その時は、甘えることを知らない子供の願いをただ聞いてやりたかっただけだった。
 だが、今はどうだろう。
 今は、どうなんだろう。

「ア、あっ…アアっ!」

「…もっと、もっとだよ、日高」

 もっと、俺に狂って。

 その言葉に、日高は途切れそうな意識の中、心の中だけで応える。
 ――もう、狂っているんだと。
 ただ、それは秋之にではなくて。

 4年前のあの夕暮れ。

 あの時から、もう自分はとっくに人として狂っているのだ。

 

 



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