十二


 

「あ、…あ」

 快感すら忘れられるものが、目の前にあった。
 ただひたすらこの身を焦がし、己のすべてでさえあったもの。
 微笑まれるだけで幸福だったあの頃、そのままの。

「日高」

「…ど、うし、て……」

「…日高、日高……日高」

 繰り返し、繰り返し己の名が紡がれる。ただそれだけで、どうして。
 どうして、こんなにも。

「許さなくていい」

 頬を両の手で包みながら、夏は哀しそうな目で、日高を見る。

「許さなくていいから、そばにいさせてよ」

 夏の大きな掌が日高の目を覆い、暗闇の中で口づけられた。
 忘れた筈の幼馴染の唇が、忘れてしまいたいあの頃のままであることに、思わず胸を掻き毟りたくなる。この唇も、掌も、微かに触れる柔らかな髪でさえ、4年前と変わらず。ああいっそ、このまま己の世界に閉じ込めてしまえたらと。
 けれど、そんなこと、この綺麗な幼馴染にできやしないから。

「…痛いのは、もうゴメンなんだよ、夏」

 そう言って、頬を包む幼馴染の手を振り払う。
 だが、払った手を今度は背中に回されて、身動きすらとれなくなった。

「何があっても、日高のそばにいるから」

「もういい。早く離…」

「陽さんが、死ぬって言っても、目の前で手首切っても、首吊っても――殺してでも。俺は日高のそばから離れないから」

 ――どうして、あの時そうできなかったんだろう。
 そう呟いた夏に、髪の上から口づけられた。

「あいしてる」

「……夏」

「日高だけ、愛してるから」

 目じりから涙が零れて、そして一気に過去に見た風景が脳裏を襲う。その全てに日高を抱きしめる幼馴染の姿があって、追想の中でさえ日高を惹きつけてやまなかった。
 けれどそれと一緒に見えたのが、日高を殺した、夕刻の闇。
 その相反する光景の連続に、ああ、自分はこの幼馴染をどうしようもなく欲しいけれど、
 どうしたって、許すことなどできやしないのだと、気づいた。

「…なら」

「……なら?」

 

「それなら、4年、耐えてみせろ」

 

 物心ついた時から、この幼馴染と一緒にいようと決めたときから、日高は耐え続けた。
 夏が何人に告白されようが、思い余った女に抱きつかれていようが、平気な顔をして耐えてみせていた。むしろ、常より朗らかであろうとさえしていたかもしれない。
 けれど本当は。心の中では、夏に寄ってくる女も男も、そして、夏でさえ憎くてたまらなかった。それでもどうしても夏を放せなかったから、周りも、夏も、それから自分さえ騙し続けた。だって仕方ないだろう?誰も彼も惹きつけて、そして彼らに無邪気に微笑む幼馴染の姿など、どうしたって見たくはなかったのだから。
 きっとあの頃、皮一枚剥げば、この身の内から這い出てくる情の塊は見るもおぞましい化け物だった。
 そして、日高の精神は、その化け物に食い殺されたのだ。
 あの、全てをなくした、夕闇の光景のせいで。

 ――それなら。 

「この先4年、ずっと俺だけを愛したら、許してやるよ」

 お前が、兄さんから離れなかった時間と、同じ時間だ。
 そう続けて、小さく息を呑んだ幼馴染にはじめて微笑んでやる。すると夏は己とは比べ物にならぬほど綺麗に笑って、そうして、もう一度きつく抱きしめた。

 シャツを羽織ったままの夏の背中に回しそうになる腕を、ギリギリのところで堪えた。
 これから、自分はこの幼馴染をひどく傷つけるだろう。今はそれを知らぬ彼も、明日になれば、己の言った意味を否応なしに理解する。
 そうしたら、夏はどうするだろう。傷ついた眸で己を見て、そうして己の元から去るだろうか。二度と会いたくないと、日高を詰るだろうか。

「……そうは、ならないだろうな」

 そうでなければ、死ぬほどこの男が欲しい自分が、あんなことを言うはずがない。
 ああ、やはりこの幼馴染は、昨日まで色のなかったはずのこの身の内を、真っ黒に染めてゆく。思えば思うほど、己の精神は暗い闇の底へと落ちていくんだろう。

「え?」

「…何でもない」

 だがそれでも。
 この男が手に入るのなら。二度と、己のそばから離れないのなら。そして。
 己が食い殺された化け物を、同じようにその身に飼うようになるのなら。

 悪魔にだろうが鬼にだろうが、この身のすべてを売ってやる。

 

 

 

「ン、あ、…あ、ア」

 じゅぶじゅぶと、濡れた音が部屋を支配する。それから、湿った呼吸と、だらしない喘ぎ声が。

「あ、も、もう…イ、く…っ」

「…ヒダカ」

「ああ!!…ア、ああッ、秋乃…!」

 ――ナツ。
 秋乃の名を呼びながら、心の中で幼馴染の名を叫ぶ。昨日から共に暮らし始めた男の名前を。
 壁の薄い隣の部屋にいる、彼を。

 なあ、夏。
 俺がこの身に飼っている化け物よりもっとおぞましくて醜悪なそれを、その身に抱えてみせろ。
 化け物を抱えても、それに食い殺されそうになっても、それでも俺を愛し続けられたら。



 ――その時は、殺されたって構わないから。

  

 



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