十一


 

 呆然と、佇んでいた。
 右手には、いつそれを手に取ったのかさえおぼろげな、カッターナイフがあって。
 そして、己の前には、もう誰もいなかった。

 ただ、どうしようもなく好きだっただけだ。
 この世の誰より綺麗で美しい男を、自分のものにしたくて、それ以外どうだってよくて。
 父と日高の関係を利用して、たとえそれが脅迫の末であっても抱いてもらった時は、あまりの嬉しさに狂いそうだった。
 ――そして、4年前のあの夕暮れ。
 手に入れたと思った。邪魔な弟はもういなくて、夏のすべてが、もう自分のものだと。
 心の中で夏がどれほど弟を思っていても、夏の腕が、夏の体が己を抱きしめてくれるのなら、それで十分だった。彼の指が己の体の内側さえ触れているという事実に、狂喜さえしていた。
 けれど。
 やはり、己が手に入れていたのは、夏という人間ではなくて、その容れ物だけだったのだ。

『貴方が今そこで死んでも、俺は日高のところへ行く』

 信じられなかった。
 信じられるはずがなかった。だって、そんな台詞が、夏の口から出るはずがなかったのだから。

『…陽さん、きっと俺は貴方が死んでも悲しいとさえ思わない。俺は、貴方が死ぬことでまた抱えなくちゃいけない罪悪感から逃げたかっただけだ。…でも、もういい。そんな罪悪感なんて、日高が誰かに抱かれるのを指を咥えて見ていることに比べたら、塵みたいなものだ』

 けれど。

『忘れてました、日高が、俺の全てだって』

 そう言って、まるで見せたことのない朗らかでいて、それでいてあまりに凄烈な笑みを浮かべた夏に。
 ああもう、何もかも、己の手から抜け落ちたのだと。

 ――笑える、と思った。
 そしてその通りに、陽はアハハハと大きな声で笑った。
 それから、息が苦しくなるほど笑って、力無くカッターナイフを投げ捨てた。

 たったひとつ、夏を繋ぎとめられるものだった、それを。

  

 

 

 ジーという、つい数日前も聞いた呼び鈴が、家の中に響く。
 玄関の前で、家の外から聞こえたその音は、夏の心にどこか堪らない何かとなって届いた。
 この音に、夏の知らぬ日高の4年がある、その当たり前でいてけして当たり前とは思えない空白の時間に、どうしようもなく幼馴染が恋しかった。

「やあ」

 ――と。ガラリと開けられた引き戸から出てきたのは、もう四十になるとは思えぬ日高の叔父、その人。
 そういえば、目の前の人にずいぶんなことを告げられたことを思い出す。だが、一字一句違わずその言葉を思い出しても別段感情の動かされぬ己を、夏はもうずいぶん前から知っていた。
 自分にとって必要な言葉は、日高の、言葉だけだから。
 頭に残せても心には残せない、そんな己の内側はもしかすれば誰より単純な構造をしているのかもしれない。

 居間に通されたところで、「少し、待っていて」という台詞を残して春加は隣の部屋へと消えた。
 襖で仕切られているその部屋からは、春加が入ってしばらくすると静かな話し声が聞こえてきた。ともすれば内容さえ聞き取れるかもしれない大きさで聞こえる声。だが、それに小さく苦笑したところで聞こえてきた春加のものではない声に、夏は息を呑んだ。
 そして、その声がいつからか話し声でなくなってからは。

 もはや、刃のこぼれた鋸で臓腑が殺ぎ落とされていくような時間だけが過ぎた。

 

 一体、それが聞こえてからどれぐらい時間が経ったのか、夏には分からなかった。
 だが、突然ガラリと空いた襖から春加が出てきて、「それじゃ」と言って家を出て行った頃には、夏の手のひらには綺麗に爪の跡が残っていた。所々、血さえ滲みながら。
 その傷をなぞりながら春加が出てきた襖を見ると、少し、隙間が空いていた。
 ――向こうに、いる。
 そのことを、もしかすれば声を聞かずとも分かっていたかもしれない。

 

 

 

 久しぶりに、春加に抱かれた。だが、何時になく楽しげだったその人は、一度日高の中で達したかと思うと、日高の目を布で覆ってどこかへ行ってしまった。
 さて、どうしようかと思う。
 遠くで玄関の引き戸が閉まる音がしたような気がしたが、まさか己をこんな状態にしたままで帰るとも思えなかった。
 ――と、悩んでいたところで、ス、と襖が引かれる音がした。

 

「…っ、アッ…!」

 おかしかった。
 帰ってきた春加は、これまでのどんな抱き方とも違う抱き方で、日高を狂わせた。――そう、日高は狂った。それが、何より有り得ないことだった。
 あの夕刻の後、日高は、誰に何度抱かれてもけして達することができなかった。気持ちいいとも思うし、まさぐられれば声も出る。撫ぜれば、性器も反応はする。だが、達することだけは、どうしても叶わなかった。 
 ――なのに、どうして。
 どうして今になって、何度達したか分からぬほど、感じているんだろうか。

「っ、も、駄目、だ…っ、ハル、カさ…アアアっ!!」

 名を呼んだ途端奥深く抉られて、あさましい声が出る。
 激しく繰り返される律動に何時になく翻弄されながらも、それでも、4年ぶりの射精の快感は日高の何もかもを震わせた。
 それから同時に、とうとう、春加とでもできたかと、どこか諦めにも似た感情が襲ったのも確かだった。
 春加とも、そして秋之とももはや数え切れぬほど交わったが、これまでけして達することができなかった。そしてそれは、自分が未だ幼馴染を忘れられないせいだと疑ったことがなかった。それをどこまでも忌々しいと思うのに、それでもあの頃の記憶を後生大事に抱えていくだろうと思っていたのだ。
 だが、こうして春加とのセックスに身も蓋もなく喘ぐ自分がいる。
 それは、もう幼馴染を忘れろと、きっと自分自身が叫んでいるのだ。そう思って、日高は目を覆う布を取り去ろうとした。
 ちょうど、その時。

「…ッッ」

 耳元で、息をこらえるような音が聞こえた。
 ――え?と思った。
 そんな癖、春加は持っていなかった。そういえば、秋之も達く時は日高の体から離れる癖があった。

 そうする人間を、日高は、一人しか知らない。

 そう思ったと同時に、バサリと目を覆う布が取られた。

  

 触れるほど近くにあったその顔は、確かに焦がれ続けた人のものだった。

 

 

 



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