櫃の鍵

 


第一部






 

 平穏な時間がこれから過ぎてゆくことを、まるで当たり前のように思っていた。毎朝母親の作った手料理を食べ、学校で友人とどうでもいい話で笑いあって、そして、隣にはいつも夏(ナツ)がいる。そういう何てことのない、けれどとこまでも愛しい全てが、日高(ヒダカ)の周りに静かに、そして確かに存在している毎日がずっと続いてゆくだろうと。
 だが、いつも頭の中には得体の知れない何かがいる。それは不安とか恐れとかそんな名前がつくようなものなのかもしれないし、そんな名前では到底表しきれないようなものですらあるのかもしれない。言葉に出せば、すぐにでも日高を襲ってきそうな、ひどく怖ろしい何か。
 きつく目を閉じ、日高は耳元を通り過ぎる風の音を聞く。冬の終わりの匂いはまだ感じられなくて、けれどあと一月もすれば確かな春がやってくる。
 ハア、と溜息が出る。口を開けずに出した溜息が尚いっそう日高を訳の分からない気持ちにさせて、堪らずその場にへたり込んだ。腰をおろした駐輪場のコンクリートは当たり前だがひどく冷たい。自分の自転車のタイヤに寄りかかって上を見上げれば、空がだんだん色を失くし始めてきていた。

「…日高?」

 ――そこに突然聞こえてきた声に、よりによってどうして今現れるんだと日高は内心盛大に溜息をつく。
 得体の知れない不安の一因を確実に担っているだろうこの声の持ち主は、日高の微妙な心理状態に気づいたのかそうでないのか、同じように日高の隣に静かに腰を下ろした。

「……まだ帰ってなかったのか?」

「少し用事があって。日高はどうして?」

「まあ…似たようなもんだ」

 あまり深くは立ち入るまいと、日高は適当なことをいって誤魔化すことにした。下手をしたら実の両親よりも共に過ごした時間が長いこの幼馴染は、日高のこととなるとまるで読心術でも心得ているんじゃなかろうかと思うぐらい鋭い。普段は周りの何もかもに興味がないように暮らしているのに、一体どこでそんなものを覚えたんだろうかと日高はいつも思う。

「似たようなもんって、日高も女の子に告白されてたの?」

「―――違う」

「なんだ、違うんだ。じゃあどうして?」

「………」

 本当に、どこまでもタチが悪い。
 神様が相当気合を入れて創ったらしい夏の容貌は、日高にはどうしても砂糖菓子を連想させる。それは夏が少女にように可愛らしいとかそういうことでは決してない。何と言うか、触れるのすら躊躇われる夏の透き通るような容姿が、不意にあの細工の美しい甘い菓子を思い出させるのだ。

「日高?」

「……寝てたんだよ、教室で」

「そうなの?――ああ、じゃあ聞いてたんだ、あれ」

 別に聞きたくて聞いたんじゃない。
 そう喉元まで出掛かったが、やめた。どうせ言わなくても、夏は分かっているだろうから。

「ちゃんと俺が断ったとこまで聞いてた?」

「…あのなあ」

「俺は、ずっと日高一筋だから」

 ニッコリと、そう、まるで教会のマリア像より美しく微笑んだ夏は、日高が抵抗する暇を与えずその体にぎゅうと抱きついた。抱きつくというには、夏は日高より縦に大きすぎるかもしれないが。

「…好きだよ、日高」

 耳元で囁かれる、甘ったるい夏の声。
 それを聞き慣れた己の耳に、日高は思わず震えてしまいそうなほど酷く怯える。
 ――怖い。とても、怖い。
 あまりに怖すぎて、このまま消えてしまいたいと思うほど。

「日高…どうかした?」

 やさしくて、あたたかくて、綺麗な夏。
 綺麗すぎる、夏。
 夏がいなくなったら、きっと生きていけない。
 馬鹿なことに、日高は本気でそう思っていて、そして、それは己が今こうして生きていることより遥かに切実だった。

「…さみぃな」

「じゃあ俺があっためてあげるよ」

 ふふと小さく笑いながら日高を強く抱きしめる夏に、それを気づかせるつもりは一生ないのだけれど。

 


「ただいま」

 そう言ったところで、返ってくるのは静寂だけだろうと思っていたが、何故か今日は違った。廊下を抜けたリビングの向こうから漏れ聞こえてくるのは、何時になく機嫌の良さそうな父親の笑い声と、聞き慣れない人間の話し声。誰だろうと思いながら日高が静かにリビングのドアを開けると、そこにいた人間に日高は思わず声をあげた。

「お帰り、日高」

 朗らかな笑みと、男にしては高めの声。そして、相も変わらず華奢すぎる身体。

「…陽(ヨウ)兄さん」

「日高。久しぶりに会ったんだ、挨拶ぐらいできないのか?」

 そこにさっきまでとは打って変わった父親の低い声が響き、日高はそれに素直に従って「お久しぶりです」と陽に頭を下げた。それを見た陽は、「お父さん、帰ってきたばかりで驚くのは当然でしょう」と困ったように小さく笑う。だが、そう陽が言ったところで何も変わらないことを知っていた日高は、それ以上何か口を開くことなく「失礼します」とだけ言ってリビングを離れた。
 リビングに入ったその時から、父親の目は「お前は邪魔だ」と言わんばかりに日高を睨んでいたことを、日高は知っているから。

 

 陽は、日高の3歳年上の兄だ。体が弱く、1年のほとんどを東北にある療養所で暮らしている。一昨年まではその療養所の近くにある大学に通っていたが、体の具合が思わしくなく、休学するぐらいならと陽は去年大学を辞めた。それからは体の治療と療養に専念し、母親の話では段々と調子が良くなってきているとのことらしかった。
 父親はそんな陽を日高が物心つくときから溺愛していて、小さくはない会社の役員をしている父親はその地位をいいことに月の半分は陽の所へ行っている。この家で日高が父親の姿を見たことはほとんどない。月の半分を陽の所へ行く代わりに、残りの月の半分は会社が用意したマンションで仕事漬けの日々を過ごしているようだった。
 フウと息をつき、日高はシュル、と己のネクタイを取る。こんなことならもう少し駐輪場で時間を潰すんだったと少し後悔した。
 ――と、そこにコンコンとノックの音が響いた。

「…日高?入っていい?」

 その声に手に持っていたネクタイをベッドに放り、急いでドアを開ける。すると、そこには紅茶とケーキを載せたトレイを持った陽がいた。

「これ、お母さんが一緒に食べろって」

「ああ…すみません」

「気にしないで」

 フフと笑いながら陽は部屋の中に入り、トレイを中央にあるテーブルに置く。それを横目に実ながら日高はドアを閉め、そして心持ち緊張しながら兄が座ったソファの向かいの椅子に腰かけた。

「大学、合格したんだって?おめでとう」

「…ありがとうございます」

「超一流大だね。僕も兄として鼻が高いよ」

「いえ…」

 その事実を知らせたのは多分父ではないだろうと、日高は口だけを笑みの形にしながら内心呟く。日高が優秀であればあるほど日高を疎んじ、それと比例するように兄への溺愛を深めていった父が、そんなことを当の兄に口にするとは思えない。

「今日の昼に帰ってきたんだけれどね、たまたま親戚の方がいらしていて。皆さん君のことをとても褒めていたよ」

「――光栄です」

 余計なことをと思いながらも、その場に父が一緒にいなかったはずはないなと更に気が重くなる。日高が褒められることを殊の外嫌っている父のことだ。兄の前で自分が褒められているという事実に相当激昂していたことだろう。

「…それでなんだけどね、日高」

「はい」

「夏くんはどこの大学に?」

「――夏も、俺と同じところです」

 突然出てきた幼馴染の名前に若干驚きながらも、日高は淡々と事実を述べる。すると、言った途端に陽の顔色がサッと曇って、日高は心の中で何だ?と思った。

「……そう。君と、同じ大学なんだ」

「…?はい」

「相変わらず、日高は夏くんにベッタリくっついてるんだね」

「……え?」

「…なんでもないよ。お邪魔したね。ああ、僕はケーキ食べないから君が食べて」

 そう言うと、陽はソファから立ち上がり、まるでここに一秒たりともいたくないとでも言うような様子で日高の部屋から出て行った。そんな陽に日高は半ば唖然としていたが、小さな頃から父親に溺愛されていた兄の我侭な一面に日高はもう慣れていて、一つ息を吐いて椅子から兄が座っていたソファへと席を移す。そして母親がよこしてくれたケーキを一口口に放り込んでから、ドサリとソファに横になった。

「…ベッタリくっついてる、ね」

 似たような台詞を、夏のことを異常なぐらい好いていた女に言われたことがあったか。
 その女を自分でも驚くぐらいの低い声と軽蔑しきった視線で見返してやれば、女はほとんど半泣きで日高の前から逃げ去っていったが。

「…ク」

 その時の己を思い出して、日高は小さく笑った。そして、ついさっき部屋を出て行った兄の後姿も同時に思い出されて、今度は声に出して笑ってしまう。
 ――好きなように思えばいい。詰ればいい。
 そんなことぐらいで、夏から離れられるのなら、とっくに離れているのだ。
 どんなに嫌悪されても、憎まれても。世の中に存在するありとあらゆる負の部分を見せ付けられても。

「――な、つ」

 お前の傍にいられるなら。

 

 お前が好きだと言ってくれるなら、俺は、なんでも。

 

  




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