「お邪魔してよろしいんですか?」

 送ってもらったお礼に朝ご飯をご馳走すると言ったナギに越智はそう聞いてきた。

「もちろん。」

「ではお言葉に甘えさせていただきます」

 ずいぶん丁寧な話し方をする男だなと思う。ナギと父親の指紋でしか開かない玄関のロックを開け、越智を家の中に通しながらナギはそう思った。そして適当なところに座ってくれとだけ言ってナギは台所に立つ。ナギの家はキッチンと居間が一続きになっていて、そのおかげでキッチンにも日の光が十二分に入る。その光で手元を照らしながら、ナギはオムレツを作るべく卵を割った。居間のソファに、その話し方同様姿勢良く腰掛けている越智に少し笑いを漏らしながら。

 

「美味しかったです」

「どーいたしまして」

 ナギの料理を評価するにふさわしい表現は美味いというより早いということだ。ナギが台所に立ってから10分ほどで、居間のテーブルにはプレーンオムレツ、トースト、野菜サラダ、コンソメスープの4品が二人分並んだ。
 そしてナギは食べるのも速い。越智が半分食べた頃には既にナギはすべて食べ終えていて、そのことにナギ自身がいちばん驚いていた。何故なら、ナギは誰かと一緒に食べるということを父親以外にしたことがない。その父親に比べれば早いとは思っていたが、越智の倍以上早く自分が食べ終えたことで、ナギは今日始めて自分の食べるスピードが速いことに気がついた。別にだからと言って何か困ったことがあるわけじゃないし、と驚くと同時に思ってはいたが。
 と、そこで思いついたかのようにナギは口を開いた。

「あ、じゃーさ、かわりになんか教えてよ。探偵ってどーゆーことすんの?」

「何でもしますよ。人物調査から猫探しまで」

「へー!じゃあ俺のこともよく知ってんだよなあ、すげーなあ」

「・・・そうですね。貴方のことも・・・貴方のお友達のこともよく知っていますよ」

 まったく表情を変えることなく言った越智の台詞は、明らかに何か含みがあるように聞こえた。それを無視して話を続けることはナギにはひどく容易かったが、そうはしなかった。何も言わずに越智の目を見続け、その口が何かを話そうとするのを待った。

「・・・貴方は、敏感な人ですね」

「は?」

「いえ・・・そうですね、私の母は、貴方のお友達の日下さんと以前お付き合いしていたんですよ」

「・・・・え?」

「お付き合い、とは言えないですね。肉体関係だけを結んでいた、とでも言うのが正しいでしょう。ですが、母は日下さんを愛してしまった。そのことに彼は気付き、母との関係を切ったんです。二人を繋ぐ唯一の連絡手段だった携帯電話の番号を変えてしまったんですよ。母は狂うように泣き叫んでいましたよ。今では薬を飲まなければ現実にとどまっていられないほどです」

 ―――何も、考えられなかった。
 考えたくなかった。
 あの家から、そしてあの男から逃げるように帰ってきたというのに、どうしてまた思い出させるのだろうと思った。しかも、さらに自分の胸が焼きつくようなことまでどうして聞かなかくてはならない?あの声も、音も、その全てを忘れてしまいたいのに、あの時の吐き気がまたナギを襲おうとしていて、ナギはあの時のように崩れ落ちそうになる。
 それに耐えようと、ナギは爪が手のひらに食い込むほどの強さで両手の拳を握り締めた。

「彼は、人を狂わせるのかもしれません。昨日貴方と彼と一緒にいた男も、彼を深く愛しているようですから」

「―――――なんでそんなこと俺に言うんだ」

「さあ、私にも分かりません。ただ・・・」

「・・・なんだよ」

「あなたが描いた絵を見たとき、私は心の底から震えあがったんですよ」



 多分誰の目にも分かるだろう明らかさで、ナギはその目を大きく見開いた。


「あんな絵を描ける画家を、私は知りません。」

 そう言って、越智は一礼してソファから立ち上がり、静かに居間を出て行った。ナギは呆然とを越智のいなくなった空間に視線を向けていたが、玄関のドアが閉められた音を聞いてやっと我に返った。
 長い時間瞬きもせずに目を開いていたからか、視界が白くぼやけている。何度か瞬きをして視界を鮮明にすると、テーブルの上に一枚名刺が置いてあることに気がついた。その名刺が誰のものなのかは疑いようがない。その名刺を手に取り、そのままポケットに入れようとして、気がついた。
 今着ているのは自分の服ではなく、制服もカバンも皆全て、スイの家に置いてきてしまったことに。
 ハアと一つ溜息をつく。時計を見ればいつもならとっくに出ている時間で、テーブルの上を片付けてからナギは部屋に着替えに行った。


 予備の制服を着るのはそう多くない。雨に濡れてしまった日の翌日であるとか、普段使っている制服がどうしても着ることができない時しか使わないからだ。そのせいか、クローゼットの木の匂いが少し香って、それに違和感を覚えながらナギは学校に向かった。
 初夏の風は真夏のなまぬるい風とは違ってひどく心地いい。特に学校の近くの道路はケヤキ並木が続いていて、ナギはそんな通学路が好きだった。秋になると綺麗な赤や黄色の葉を色とりどりに身につける木々たちは、本当に自分を和ませてくれるとナギは思う。
 だが、あと数メートルで校門に着くというところで、校門に見知った男がいることに気づき、ナギは足を止めた。

 

「……ナギ」

 

 あの家から、あの男から離れたくて、逃げた。

 

 けれど本当は、今ナギの名前を呼んだ男から逃げたかったのかもしれなかった。

 

  



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