久しぶりに5時前に帰ってきた家は相変わらず静かだなと思う。いつもは守衛の人間に起こされるまで惰眠を貪っているナギは、大抵家に帰るのは夜の8時すぎだった。いつもの変な奴が今日はいないなと思ってるんじゃないだろうかと思って、ナギはつい小さく笑ってしまった。
 いつも朝の6時には家を出て帰るのは夜の8時だから、家より学校にいる時間の方が長いんだなといまさらのように思う。ほとんど人の住んでいない家だというのに、10人は優に腰掛けられそうなソファにどすんと横になると、そこからは誰の匂いもしなかった。

 

 この家に暮らし始めて今年で6年になる。
 最初日本に来たときは、とにかくその人の多さに驚いたのを覚えている。そして、まるでロボットのように皆が同じような服を着ていたことに少し怯えたことも。それがサラリーマンというものだと知ったのはそう昔のことではない。現に今、数百人もいる高校の生徒は、皆が皆まったく同じ服を着て登校し授業を受けているのだから、ナギ自身そのロボットの一人になったということだ。
 だが、それでも、「苛め」という単語すら知らなかったナギにとって、小学校での体験は学校が嫌いになるには十分だった。
 最初は、一人だけだったのだ。肌が白く、髪が茶色で、目の色も日本人より数倍薄いナギを軽蔑するような台詞を吐いたのは。
 それが、いつのまにか、二人、三人、そして結局はクラスの大半がこぞってナギをなじるようになった。

「そんな髪、そのうちハゲるんだぜ」

「色白くって大根みてぇ」

「お前小学生のくせにカラーコンタクトしてんのかよ」

 そんな言葉だけの苛めが、暴力に発展するのにそう時間はかからなかった。
 靴を隠され、体操着を捨てられ、机にゴミを置かれ、そして、放課後呼び出されて集団で殴る蹴るの暴行を受けた。
 まるで神にでもなったかのように上からものを言う、その集団のリーダーだろう生徒に鉄の棒で殴られたナギの背中には、未だに消えない傷がある。
 いつも、地面に這い蹲り、自分の頭や腹を殴ったり蹴ったりしてくる彼らを、ナギは絶対見なかった。
 ただただ、彼らが早く自分を殴るのに飽きて、ここから去っていってくれることだけを願っていた。

 ―――それが終わったのは、ナギが苛めを受けるようになって1年もした後だった。
 1年の半分をフランスで過ごす父親が、ナギの休みに合わせて日本に帰ってきて、海に泳ぎに行こうとナギを誘っても頑なにそれを嫌がるナギに不審を抱いたのがきっかけだった。
 父親は、ナギが寝ている間にナギの部屋にこっそり入り、そういえば見たことがなかったなとナギの教科書やノートを見ようとして、愕然とした。
 ノートの大半には誰かの靴跡と泥がこびりついており、教科書は破かれてさえいた。そして、手に持っているランドセルも、まだ1年しか経っていないというのにボロボロと言っていい状態で、それが物を大事に使うナギがやったものでないことは父親の目からは明らかだった。
 静かに、静かにナギの上掛けを取り、パジャマのボタンを開ける。
 ―――ナギの腹、肩、胸、見えるところだけでも、付けられたばかりの痣や、未だ消えていないのだろうどす黒い痣がその肌を覆っていた。

 翌日目が覚めると、ナギはどこかの病院のベッドだった。ベッドの横には父親が座っていて、沈痛な面持ちでナギを見つめていた。

「・・・ナギ」

 その顔に、ああ、全てが分かってしまったんだなと、どこか他人事のように思ったのをナギは覚えている。
 体中から鼻につく湿布と薬の匂いがして、それでも自分の血の匂いよりはマシかもしれないと心の底で思った。

 退院後、ナギは学校を転校させたと父親に言われた。

 そして、後から、ナギを苛めていた生徒の家族は、当時すでに現代画家として世界でも随一の評価を受けていた父によって、めちゃくちゃにされたらしいと聞いた。

 

 

 少し、眠りそうになっていたらしい。
 ソファからずり落ちそうになっている自分に気付いたナギは、よっこらせとオヤジのような声をあげて体を起こした。時計を見るともう6時を過ぎており、自分の腹も空腹を訴えている。いつもは学校の帰り道に適当に済ませるのだが、さすがに今日はそういうわけにもいかない。冷蔵庫に何も入っていないことを知っているナギは、コンビニに出かけようと部屋に着替えに戻った。

 制服を脱ぎ、適当なパンツを履いてパーカーを羽織る。そして財布だけ持って出かけようとしたところで、階段を昇ってくる足音に初めて気付いた。

 コンビニには行けねーなーと思いながら、ナギは自分の部屋のドアが開けられる音を聞いた。

 

 




HOME  BACK  TOP  NEXT

 


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送