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 日本を出る準備は思いの外簡単だった。
 もともと部屋にあまり家具を置いていなかったために、スイの荷物は二度と帰ってくるつもりのない母国を出る割には異常に少なく、引越し業者の方が驚いていたくらいだった。そんな彼らに適当な笑みを返しながら、スイは窓から慣れ親しんだ風景を見る。窓の外に見えた、今は花が散ってしまった桜の木に、ふとこのマンションを選んだ頃を思い出した。

 家を出ようとマンションを探していたのは中学に入って間もなくの頃だった。
 夜スイの部屋に入り込んでくることはおろか、義母の行動全てに吐き気がするようになった頃だ。
 学校帰り、その時付き合っていた女の家に行こうとたまたま通りかかったこのマンションの向かいに綺麗な枝垂桜を見つけて、スイはその桜に瞬時に目を奪われた。その桜は、スイが8つのときに死んだ母親と見た桜の木とあまりに似ていて、それが否応なしに母親を思い出させた。
 そのマンションの仲介業者にその日のうちに電話をし、父親の名で空いている部屋を見せてもらえば、全ての窓から見えるわけではなかったが一部屋から確かにその桜が見下ろせた。その光景にスイはその場でこのマンションに住むことを決めたのだ。
 もう季節は移り変わってしまっていて、その桜は見ることができない。今思えばひどく女々しい理由で決めたものだとスイは自嘲して、そして同時にスイがアメリカで学びたいと思うものをくれた母親を思い出した。

 あれはまだ小学校に上がる前だったはずだ。
 家を空けがちな父親との交流はもうその頃からほとんどなく、それを埋めるかのようにスイは母親によく懐いた。
 その日も母親と一緒に買い物に出かけていて、その帰りにスイは道路の小石につまずいて転んだのだ。膝を見れば見事に擦りむいて血が出ていて、母親が焦ったようにスイを抱え起こしてくれた。その顔には心配そうな表情がありありと浮かんでいて、スイは母親を心配させまいと痛みを堪えて「大丈夫」と笑顔を作った。すると、そんなスイを見た母親がスイから視線を外し、きょろきょろ何かを探し始めたのだ。なんだろうと思いながら母親を見つめていると、母親は目的のものを見つけたようで顔をぱあっと綻ばし、土手にあった雑草の一本を抜いてきた。

「膝見せて?」

 ニッコリと笑う母親の言うとおりスイが膝を見せると、母親は軽くスイの膝から砂や土を落とし、その上に葉っぱを巻きつけたのだ。

「なにこれ?」

「んー、この葉っぱはねえ、擦り傷によく効くの。家に帰るまでの応急処置ってとこかな」

 そう言って微笑む母親の顔は本当に綺麗だとスイは思ったが、スイには他の雑草と今自分が膝に巻いている葉の違いがよく分からず、ただただ母親を尊敬のまなざしで見つめていた覚えがある。
 そしてその傷が治ったころ、スイは学校の図書館で植物の図鑑に片っ端から目を通し、植物には治癒力のあるものが多いということを知ったのだ。
 だが、それを母親に伝えようと思った頃には、母親はもう意識すらおぼろげになってしまっていた。

 

「…さん、お客さん?」

「…え?……ああ、悪い」

「いえいえ。荷物、梱包終わったんで持ってきます。指定の日には届くようにしますんで」

「ああ、お願いします」

 すると、業者の人間は一斉にスイの荷物を外へと運んでいく。家具のほとんどない家から荷物が全部なくなるのにそう時間はかからず、あっという間にスイの家は空っぽになった。

 玄関で業者の人間の挨拶が聞こえて、途端部屋に静寂が流れる。

 すると、さっきまで脳裏に浮かんでいた母親の影にとってかわるように、にこやかに微笑む男の顔が浮かんで、スイは軽く目を伏せた。

 

 

 

『もしもし』

「…俺。スイ」

『………元気か?』

「ああ。…お前は?」

『おお、ヘーキ』

「そうか」

 

 今日の昼には解約する携帯から、スイはナギに電話をかけた。

 電話の向こうから聞こえるナギの声は、2週間前のあの時よりはるかに疲れて聞こえた。

 

「あのなあ、ナギ」

『ん?』

「今日、日本発つんだ」

『……………え?』

「多分、もう戻ってこない」

『ス、イ』

「お前には、言っとこうと思って」

『……カイト、には?』

「……言ってない」

 

 あれから、カイトが家に訪ねてくることはなかったが、それでも何度か携帯に電話があった。

 スイはもう二度とカイトに会うつもりも、そして話をするつもりもなかったからその電話に出ることはなかったが、留守電に残されているカイトの声はいつもどこか泣きそうだった。

 

『…いつ、発つんだ?』

「…2時半」

『そっか……』

「ああ」

『……なあ、スイ』

「ん?」

 

 しばらく、電話の向こうからは何も聞こえなかった。

 だが、電波を通じた向こうに、ナギが苦しそうな表情を浮かべて携帯を耳に当てている姿が容易く想像できて、スイは話を急かすことなどできなかった。

 

 


『……俺も連れてけよ』

 

 

 

『…嘘、嘘だよ、スイ。びっくりしたか?』

「………ナギ」

『……ご、、めんマジで。アハハ、じゃ、じゃあ気をつけて行けよ!』

 

 電話が切れる。 

 だが、それは確信にも似た予感だった。

 

 

 スイはすぐに部屋を駆け出し、エレベーターに乗る。下に降りるスピードの遅さに苛々しながら、やっと1階について飛び出すようにエントランスを出ると、マンションを見上げるように立っているナギがいた。

「…ナギ」

 そう呼んで、自分の方を振り向いたときのナギを、スイは一生忘れないだろう。
 まるで今にも泣きそうに、けれど確かに笑っているその顔を。
 近付けば近付くほど、こっちが泣きたくなるように笑う、ナギの顔を。

「……これ…前、お前に見せたいって言ってたもん」

 差し出されたナギの右手には大きな紙を丸めたようなものが握られていた。スイはただじっとナギの顔だけを見つめていたが、ナギはけしてスイと目を合わせようとはしなかった。視線をゆっくり下にずらすと、差し出されたままのナギの右手がある。その右手にある紙を受け取ろうとスイは手を出した。だが、スイの手がナギの手に触れたその瞬間、紙を掴んでいた手が一瞬緩んで、その紙がバサリと大きな音を立ててスイの目の前に広がった。



 ―――息が止まるかと思った。

 

 描かれているのは、墨一色で書かれた、青空。

 どうしてこの黒と白しかない絵は、頭上に広がるあの青にしか見えないんだろうか。
 
 こんなに綺麗な絵を、スイは知らない。

 ただひたすら、空に、青に、太陽に、そして、光に焦がれている絵を。




「……これ、持ってってくれよ」

「…どこに」

「どこにって……向こうに」

「ヤダ」

「…頼む」

「絶対に嫌だ」

「スイ!」


「お前が来い」


 そう言って、抱きしめた。





「なら、その絵、持ってってやるよ」
 





 子供にするように抱え上げて、今度こそ目を合わせる。


 ナギは泣いた。


 泣いて、泣いて、泣いて。

 





 その涙にスイはあのとき無くした己のひかりを見つけた。

 

 

 

  

                                                    End.




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