19


 

 本当は、ちゃんと朝ナギが起きてくるのを待ってから帰ろうと思っていた。
 前、と言ってもそう昔のことじゃないが、スイがカイトに言われるがままカイトを抱いた夜の翌朝、ナギがもう家にいなかったという事実だけで、昨晩のことを知られたのだとスイは分かってしまったから。
 だとすれば、自分が帰ればナギはスイが知ったことを知ってしまうだろうからと。
 だが。

『僕とナギは、ナギが12のときからセックスしてる』

 あの台詞が頭から離れない。その台詞自体のおぞましさと、ほんの数時間前に抱いたばかりのナギが自分以外の誰かに抱かれていたことをまざまざと見せつけられて、スイはナギを待てずに家を出た。時計を見れば短針は2を指していて、当然まだ空は真っ暗だ。その暗さに吸い込まれそうになりながら、スイは適当な場所でタクシーを拾った。

 

「お帰り」

 タクシーから降りた途端聞き覚えのある声がして、スイは声がした方に顔を向けた。

「遅かったね。結構待ったんだよ?」

「……カイト、俺は」

「夏だからって外で3時間も待ってたら寒いの!はやく中入れてよ」

 スイに全部を言わせずにカイトはスイの腕を掴み、急ぐようにスイのマンションに入っていった。半ば引きずられるようにして自分のマンションのエレベーターに乗り込みながら、スイは小さく溜息をついた。それはもしかしたら隣にいたカイトに聞こえたかもしれないが、別にそれでも構わなかった。

 入った部屋は当然出かけたときのままで、そこかしこにナギの気配が残っている。
 ソファはまるきりその位置をずらし、その下にひいていたラグもくしゃくしゃになっていた。その事実に、一体己がどれだけナギに夢中になっていたか思い知らされる。ソファを元に位置に戻そうと手をかけたところで、このソファの上でナギを抱いたことを思い出してスイは軽く目を伏せた。
 ―――あれほど切実なセックスをスイは知らない。
 ナギはスイしか見ていなかったし、スイもナギ以外のことなど考える暇はなくて、そのことがいっそ泣きたいほど切なかった。

「どうしたの、これ」

 ぽつりとカイトが呟いた声でスイは思考を今に戻す。それに適当な返事を返しながらスイは斜めになったままのソファに腰を降ろした。

「…あの電話、どういうこと」

 スイに続いてその隣に腰を降ろしたカイトがそう聞いてくる。多分近いうちにもう一度こうやってカイトと話さなければならないことは分かっていたが、それでもそれが今日である必要はないだろうとスイは額に手を当てた。

「日下くん、答えて。…もう僕とは寝ないって、どういうこと!?」

「……そのまんまだよ。もうカイトと寝ない。ウリはやめたから」

「やめ、た、って…」

「必要な金はほとんど手に入った。だから、もう客は取らない」

 きっぱりとそう言い捨てることが、多分隣に座る人間を傷つけるだろうことはスイには分かっていた。もしかしたら出会ったときから、カイトが自分に客以上の好意を寄せていたのかもしれないと思う時すらあった。それほど、カイトのスイへの執着は並大抵のものではなくて、でもそれが可愛いと思えるときもあったのだ。
 何もかもを手に入れていたのに、スイだけがいればいいと言うこの男のことを、愛しいとは思えなかった自分が最低だと思うことも確かにあったのだ。

「…な、らもうお別れ…?」

「……ああ」

 否定してやるのは容易い。今度は友人として会うことができると言ってやることができればとも思う。だが、それでは駄目だということもスイはよく分かっていた。
 お互いの気持ちの方向がこれほどまでに違う人間同士が、友人として付き合えるはずはないのだ。

「じゃ、あ最後に抱いてよ、日下くん。いいでしょ?最後だから、いっぱいセックスしてから別れようよ」

 こんな台詞を言わせる自分が情けないとスイは思う。カイトは、誰にも媚びず、そして自ら何もせずとも誰もがその存在を望むような男だった。それが、どうしてこんな言葉を言うようになったのか―――その原因がスイにあることは疑いようがなくて、だからこそスイはそれに頷いてやることはできなかった。

「…なんで?お金なの?なら後で払うから!」

「違う、カイト。もう俺はお前を抱けない」

「なんでよ・・・最後だから!」

「………悪い」

「……い、やだ。いやだいやだ!!絶対にいやだ!」

 綺麗な顔がくしゃくしゃに泣き崩れていて、それを見ているだけで辛かった。
 だが、それでもスイはそんなカイトを抱きしめてやるわけにはいかなかった。

 情が移ってしまうほど長すぎた関係を、終わらせなくてはならなかった。

「…カイト、勘違いするな。俺とお前はただのウリと客、それだけだ。泣かれても困る」

「くさ、か、くん」

「もうこれっきりここには来ないでくれ」

 泣き声が止み、もともと静かだった部屋には静寂が戻る。それは、1年続いたカイトとスイの関係が終わる音そのもので、何もなかったものが、同じように何もなかったようになるだけだとスイは思った。
 本当はもともとこの部屋にカイトを入れるつもりなどスイにはなかったのに、何故かそれを許してしまうような無邪気さがカイトにはあって、それを思い出してスイは強く拳を握った。いつも、子供のような無邪気な笑みを零してくれた男で、その肌の白さと華奢な体と、そしてその笑顔がスイの死んだ母親をどうしようもなく思い出させた。だから、そんな笑みなら家で見るのも悪くないと思ってしまった。

 それが、今になってこんなにもカイトを傷つけるのなら、するべきじゃなかった。
 カイトがどれほど強請っても、泣いても、家には入れるべきじゃなかった。

 ――母親の面影を求めて、付き合いを深めるべきじゃなかった。

 

「朔田くんと関係あるの?」

「……何?」

 突然聞こえたカイトの台詞にスイは伏せていた目をあげた。

「彼、クオーターなんでしょ?僕より色も白くて、目の色も髪の色も薄くて……。僕よりもっと、おかーさん思い出させるんでしょ?」

 何故カイトが死んだ母親のことを知っているんだとはスイは思わなかった。というより、思う暇などなかった。
 途端頭に浮かんだのは、ナギの胸と、そしてその上に散らされたいくつもの赤い痕。そして、同時に自分の下で首を仰け反らせたナギの、綺麗な白い喉元。

 あの、スイの何かの堰を切った、ナギのすべて。

「……あいつに、母親なんか思い出してねーよ」

「じゃあなんで?なんで日下くんはあの子に何でも話したの?!」

「・………さあな」

 ただ、気に入っただけだ。

 「変人」と呼ばれる、どこか普通とは違って、そして自分を色眼鏡で見ない存在をなんとなく傍においてみたいと思っただけだ。
 自分でもどうしてなのか分からないままナギを抱いて、まるでそうすることが当たり前だったかのようにナギの体はスイに馴染んだ。

 だからだ。

 それ以上の理由なんて知らないし、必要もないだろう?

 

 

「……悪い、カイト。これからすぐ出かけるんだ」

「…どこに?」

「…カイト、もう俺はお前に何も言えない。言ってやれない。この1年楽しくなかったって言えば嘘になる。でも、俺にとってお前は客でしかなかった。もう俺はお前に何もしてやれない。だから」

 



「さよならだ、カイト」

 

   



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