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 ナギは、まだフランスにいた頃よくチーズを食べた。家の近所にチーズの専門店があって、ナギは店主に勧められるまま色々なチーズを食べたが、何故か匂いが強いものでも、味が奇妙なものでも平気だった。
 だが今、ナギはブルーチーズやシェーブルのチーズはおろか、ナチュラルチーズすら食べることができない。

 それと同じことだとナギは思う。

 以前は平気だったものが、時が経って平気じゃなくなるということは多分よくあることなのだ。

 

 

「時間とらせてごめんね?ちょっとだけだから」

 スイと駅で別れ、その時には既に時計は昼の12時を過ぎていたこともあって、ナギは家の近くにあるファーストフードで時間を潰そうとダラダラそこまでの道を歩いていた。するとファーストフードのどでかい看板が見えてきたあたりで、後ろからポンと誰かに背を叩かれたのだ。何だ?と思って振り向けば、自分の目線より少し低いところにカイトの顔があった。


 そして現在、ナギは行こうと思っていたファーストフードでカイトと向かい合わせに座っているというわけだった。


「朔田くん?」

 目の前で小首を傾げながら自分の名前を呼ぶ男を初めて見たのは、そう昔のことではない。そして、その時はナギの胸に何の感情もよぎらなかった。単にこの男が腕を絡めていた男がクラスメイトの間でよく話に出てくる男だったことに少しばかり驚いたというだけで、この男の綺麗な顔にもそしてその動作にも1ミリもナギの心は動かされなかった。

 なのに、今ナギの胸の中によぎるこの激しい感情は何なんだろう。 

「・・・別にいーけど。それで何の用事?」

「ん。あのさ、今日の朝のこと謝ろうと思って」

「・・・・・・そーか」

「うん。ちょっと大人げなかったね、僕。ほら、日下くんってああいう性格でしょ?友達いるなんて思ってなかったから、意味もなく嫉妬しちゃった。単なるお友達同士ってだけなのにね」

「……………」

 本当に謝ろうと思っているんだろうかと、多分ナギでなくても疑ってしまうような台詞だった。ナギがカイトの顔を見てみれば、その顔には確かに申し訳なさそうな表情が乗っていて、けれどその表情が本物だと思ってしまうほどナギは馬鹿じゃなかった。
 というより、ナギだからこそ分かったのかもしれない。
 小さな頃から「物を見る」ことに関してだけは、ナギは他人の数十倍の注意力で取り組む。それは、絵を描く上で絶対に必要な作業で、ほとんど義務のように続けてきたそれはナギの中で半ば本能のようなものだ。

 そのナギの本能は、カイトの表情が「嘘」であると警告を鳴らしている。

「なんだかんだ言って面倒見いいもんね、彼。僕もよく酔っ払っておぶってもらったことあるんだけどさ」

 フフフと笑うその顔は、まるで女のようだとナギは思う。
 そしてふと、越智という探偵が言っていたことを思い出した。彼の言葉どおり、カイトはスイを深く愛しているのだと思う。
 だが、カイトは「客」だとスイは言っていた。そして、金が貯まればおさらばだとも。
 ―――もしそのことを知ったら、目の前の男はどうするんだろう。

「それにしても、結局日下くんには聞けなかったんだけどさ、どうやって知り合ったの、君と彼って?」

「……スイとあんたがホテルに入ってくとこを見たんだよ。それで学校でスイに会ったときについ「ゲ」とか言っちゃって、まあそれが出会いったら出会いじゃねーかな?」

「ぶっっ、そ、そうなの?アハハ、それじゃ彼が言わないはずだ。でも、なーんだ、なら俺と彼がそーゆー関係だって君は知ってたってことだもんね。それこそ謝らないと」

「別にもーいー。客なら仕方ねーだろうし」

 それはほとんど無意識に出た台詞だったが、それでも、その言葉が目の前の男の何かを確実に傷つけるだろうことはナギには分かっていた。胸の中に広がる激しい感情は明らかにカイトへの嫉妬で、それを少しでも和らげたいとナギは無造作にその言葉を吐いた。
 案の定、カイトの顔はみるみるうちに強張り、それをすべて見ていることはできずにナギはコーヒーを飲む振りをして目を伏せた。

「………そ、こまで知ってるんだ」

 そこまで、というのなら、それまでカイトはスイとの関係をナギがどう思っていると考えていたんだろう。というより、ナギにどういう風に思わせようとしていたんだろう。

「ねえ…そんなことまで話す間柄ってどーゆー関係なの?ほんとに友達?」

 ―――そんなことはナギだって知らない。
 日本に来てから、友達と名のつくものなどナギには一人もいなかったのだから、友達がどういうものなのかすら知らないというのに。それに、スイがナギのことを友達と思っているかどうかだって分からない。
 そんなことを考えていたために、ナギは気が付かなかった。
 カイトの問いに全く答えようとせず、まるで無視するかのように軽く目を伏せているナギをカイトがどんな目で見ていたかなど。
 そして、当然酷薄そうな笑みを浮かべてカイトが口を開いたことも。

 

「でも、僕と彼みたいに、君は寝てないだろう?」



 突然耳に入ってきた信じられない言葉に、反射的にナギは伏せていた目を上げた。

「ほら、僕の首見なよ・・・彼がつけた痕がいっぱいあるだろ?多分、セックスに夢中になりすぎてこんなことするんだと思うけどさ、君の首には何の痕もないもんね」

「な、に言って」

「キスマークだよ。日下くん、絶対つけるんだよ僕に」

 

 

 ―――ナギ、見てごらん。綺麗だろう?

 

  

「彼が僕の体じゅうにキスをして、いろんなところを嘗め回してるとき、僕はすごい興奮する」

 

 ―――ほら、おいで?

 

「あの綺麗な顔が僕に奉仕してくれてるんだよ?僕を感じさせようとして」

 

 ―――足広げて。それじゃあ見えない。

 

「僕の中に彼が入ってきて、それだけで僕は感じる。イっちゃったことだってあるんだよ、恥ずかしいけどさ。それで体壊れるんじゃないかって思うくらい突き上げられて、イくって時に僕は絶対彼の顔を見るんだ。彼のイった時の顔、僕の知る誰より色っぽい」

 

 ―――まだだよ。まだ、駄目だ。

 

「彼の汗とか・・・精液とか。その全てが僕には愛しい。それが全部僕とひとつになるんだから」

 

  

 やめてくれ。

  

 

 喉の奥から何かがこみ上げてくる。これは前のように体の奥から何かがこみ上げてくる感触とは全然違って、ただ胃の中のものが物凄い勢いで逆流してきていた。
 耐え切れずに席を立ち、店の奥にあったトイレに駆け込んでナギは今日食べたものをすべてを吐き出した。
 目じりから涙が滲む。それは単に嘔吐したことによる生理的な現象だ。それでも、その涙を感情の赴くまま流してしまいたいと思うほど、カイトの言葉の全ては、ナギの体の心臓とか肺とか胃とか、そういう生命に関わる内臓に直に響いた。
 全力疾走した後のように激しく鳴る心臓の鼓動と、溺れた魚のように息を上手く吸い込むことのできない肺と、その中を空っぽにしようとする胃と。
 言葉に刃があるというのは本当だな、と何故か他人事のようにナギは思った。

 吐いたものを全部トイレの水で流して、洗面所で口をゆすぐ。
 口の中から消える不快な味と一緒に、体の中のすべてを洗い流してしまいたかった。

 

 

「・・・悪い」

 席に戻ると、なんとなく帰っているような気がしていたカイトは未だその席に座っていた。

「別にいいけど。でも、一体どうしたの?どう見ても具合悪そうだけど」

「・・・朝食べたモンが悪かったのかもな」

「そーゆー風には見えなかったけど。あ、もしかしてさ、セックスの話とかに、がて……」

 突然カイトが話すのをやめたかと思うと、中途半端な時間のせいかあまり人のいない店内が徐々に静寂に包まれた。なんだ?と思いながらカイトを見ると、どうやらナギの肩ごしに見える何かに呆然としているらしい。
 その視線に釣られるようにナギも後ろを振り向き、そこにあった映像にナギは目を見開いた。

 けぶるような金髪と、青に近いグレーの瞳。そして、外国人らしい高い身長と長い手足。

 

「ナギ」

 

 

 そう自分の名を呼ぶ、傾国とまで言われた美貌の男は、紛れもなくナギの父親だった。

 

 




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