「あの…佐倉、瑛至さん、ですか?」

 大学の構内で、いきなり話しかけてきた男の顔に、瑛至は一気に顔を強張らせた。
 そんな瑛至に気付いたのだろう目の前の男は一つ困ったように笑って、なのに、その笑みのあまりの柔らかさと仄暗さに瑛至は一瞬見惚れそうになる。

「少し、話せますか?」

 だからか、そう聞いてきた男の声に反応するのが遅れ、「佐倉さん?」と呼びかけられてやっと我に返るという醜態を見せることになり、結局、瑛至は男に言われるがままカフェに入るしかなかった。

 

「すみません、突然。俺は――」

「時田桐さん、でしょ」

「…何で知って」

「北原に聞いたから」

 少し攻撃的になっている自分が分かっていながら、瑛至はそうなる自分を抑えられなかった。
 だって仕方がないだろう、と思う。目の前にいる男は、瑛至が好きで、しかも恋人だったはずの杜とセックスをするような仲で、しかもついこの間その現場を見せられたばかりだというのに。

「それで、何の御用ですか」

 早く目の前からいなくなってほしい、それしか瑛至の頭にはなかった。
 何を言うつもりなのかは分からない。だが、桐から発せられる言葉が瑛至にとって良いことであるはずがないことだけは容易く想像できて、とにかく用件だけを言って早く解放して欲しかった。
 それでも、何も聞かずに逃げ出そうという気にならないのは、杜と付き合ったおかげで少しはついた度胸と、この間見た光景より最悪なものはもうないだろうという思いからだった。

「俺と杜は…恋人でもないし、そこに…何かしらの情があるわけではないんです」

「…え?」

 だが、耳に届いた台詞に、瑛至は思わずそう問い返した。

「俺は人としてあまりいい出来の人間じゃない…だから、杜はそんな俺を見張ってるだけで、俺と杜の間には何の愛情もありません」

「そ、んなの、理解できない。だって、貴方と、杜は…」

 そこで瑛至は思わず言い淀む。
 頭では反芻できても、その先を口にすることだけはどうしてもできなかった。

「……杜が俺を抱くのは、俺を愛してるからじゃ絶対にない。杜は、貴方のことを話す時、無意識かもしれないけどとても優しい表情をしていました。あんな表情をする杜を、俺は他に知りません」

「そ、んな…」

「…俺には、杜に、一生償っていかなきゃならないことがあります。だから、俺は杜の望むがまま何でも受け入れることに決めてました。でも、俺といると、杜はきっと色んなものを殺がれてく。…佐倉さんといる時、杜は多分優しいでしょう?杜という男を、貴方は優しくできる人なんだと思うんです。…だから、どうか杜が望む限り、杜の傍から離れないでやってください。…お願いします」

 そう言って、テーブルにつくほど頭を垂れた桐を、瑛至は呆然と見つめていた。
 最後は、ほとんど懇願のような声色で発せられた桐の言葉は、瑛至が思っていた桐が言うだろう台詞とは全く違っていて、なのに、他の何を言われるより心臓が痛むのは何故だろうと瑛至は思った。

 瑛至にとって、桐は憎むべき対象で、そして自分は被害者でしかないはずなのに、どうしてこうも哀れに見えるんだろうか。
 それは、桐があの墓の下に眠っている男の恋人だったろうことが理由かもしれないし、その恋人に目の前で死なれたことが理由なのかもしれない。

 だが、それ以前に、目の前の人間を取り巻く、言葉にするなら透明とか清浄とかいうような消え入りそうな空気が、瑛至にそう思わせるのかもしれなかった。

 

 

 

「よお」

 大学から帰ろうとしたところで、そう声をかけられた。
 振り向かずともその声の持ち主が誰なのかは容易に分かって、ゆるりと振り返った先にはその通りの人間が立っていた。

「もう色々バレちまったから前置きはいらねえよな。…別れようぜ、瑛至」

 そして突然別れを切り出されたにも関わらず、瑛至は何故かその言葉すら予想していたのかもしれないと思うほど驚かなかった。そして、杜はそんな瑛至のことを分かっていたようで、全く表情を変えない瑛至の頭を一つ優しく撫でた。

「お前は、綺麗な人間だよ。あんまり綺麗すぎて、手ェ出せなかった」

「…杜」

「……あいつと、会ったんだろ?」

 杜の言う「あいつ」を、瑛至は一人しか想像できなかったが、多分それで正しいんだろうと思った。それに何故か答えることができずにいると、杜も瑛至が答えることを期待してはいなかったのか、杜の方が口を開いた。

「あいつは、多分蓮に会うずっと前から、自分自身が一番嫌いな野郎だった。蓮に死なれて、あいつのそれはもっと酷くなった。それこそ、いつ死んでもおかしくないぐらい」

 そう言う杜は、今まで一度も瑛至に見せたことのない表情をしていて。

 それは、瑛至があの夜見た、桐に向けていた顔にとてもよく似ていた。

「…あいつには――時田には、一生背負わなきゃならない贖罪がある。俺が蓮にできるのは、あいつを蓮のとこに行かせないことだけだ」

 

 

 杜と別れ、瑛至は何故かこのまま家に帰る気になれず、構内のベンチに腰掛けた。
 冬の寒空の中、外にいる人間はあまり多くはないが、それでもちらほら見える学生たちを瑛至のいるベンチからは見渡すことができる。

 何かを話しながら歩く友達同士。
 立ち止まって輪になりながら、時折大きな声で笑い合う学生たち。
 ベンチに腰掛けて、一人本を読む男。
 手を繋いで、どこかに行くのだろう恋人たち。

 そう、ああいうのが普通の顔だと、瑛至は思う。
 それは友達同士だろうが、恋人同士だろうが、変わらない。恋人のそれの方が、友達のそれより情が深いように見える、それだけだ。

 だが杜の、桐のことを話しているときのそれは、絶対に普通ではなかった。
 まるでこの世の誰よりも憎く、この世の誰よりも煩わしく、この世の誰より恨んでいるという表情をしているのに、

 この世の誰より想い、この世の誰より必要で、この世の誰より愛しているという眼を、杜はしていた。

 

「…一生、気付かないんだろうな」

 そう、多分杜は生涯気付くことはないだろうと瑛至は思う。
 たとえ杜のそれが、桐を愛している以外の何物でもないとしても、杜本人がそうでないと思っている以上、杜と桐の関係は、多分お互いがお互いを苦しめるだけのものにしかならないだろう。

 それは、酷く苦しいだろう。
 耐え難いほど、辛いだろう。

 だがそれでも。

 あの、まるで存在自体が希薄に見えた時田桐という人間を、杜は、痛みを分つことで、手に入れているのかもしれない。

 

 恋人が、その死をもって手に入れたもの以外のすべてを。

 

 

「…ばいばい、杜」

 自分だけに聞こえるぐらいの声で、瑛至はそう呟く。
 声にした杜の名前は、やはり少しの痛みとともに瑛至の耳に響いた。

 きっと、もう友人には戻れない――戻るつもりも、ない。

 だが、友人にするにはあまりに遠すぎるその存在を、瑛至はきっと一生忘れることもできないんだろうと、そう思った。

 




                                                   End.  




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