「…っと悪い……お前、佐倉か?」

 ドアから出てすぐに走り出した瑛至は、エレベーターから出てきた人間に思い切りよくぶつかった。男にしてはあまり身長が高い方ではない瑛至はその人間の胸のあたりに顔をぶつけたが、その程度の痛みなどその時の瑛至にはどうでもよかった。
 だが、上から聞こえてきた声は確かに瑛至にも聞き覚えのある男のもので、たとえそれが誰でも、とにかく知り合いに会えたことで限界まで来ていた瑛至の心は一気に緩み、それは一緒に瑛至の涙腺も緩ませた。

「おい?佐倉?」

「…ふ…っっ」

 止まることを知らないように、瑛至の目からは涙が零れる。ぶつかった人間のシャツを握り締めながら、瑛至は声を抑えて泣き続けた。下を向いた顔から零れ落ちる涙は、マンションのコンクリートの廊下に一つ、二つ、と濃い色の染みを作っていき、その染みを見ることすら嫌で瑛至はぎゅっと目を瞑った。

「…杜が、何かしたか?」

 静かに囁かれた声に、やっとその声の持ち主が誰か分かる。何とか目を開けて視線を上げれば、そこには杜の幼馴染らしい北原万里(キタハラバンリ)がいて、瑛至は万里の台詞にかすかに首を横に振った。


「なら、何か、見たか?」


 その、何もかもを見通しているかのような言葉に瑛至は一瞬言葉を失い、そして同時についさっき見た光景がフラッシュバックして、瑛至は堪らず頭を思い切り横に振った。

 

 杜は、いた。
 寝室のドアを一気に開け、杜、と瑛至は名前を呼ぶつもりだった。
 だが、できなかった。
 杜は、一人じゃなかった。
 あの夜、杜が噛み付くように口付けていた男が、そこにはいた。

 

「な、にも見てない。何も見てない……!!」

 杜の下にいた男が、涙を流していたことも。
 杜が、瑛至が初めて会ったときにしていたような、酷く鋭い空気を纏わせていたことも。

 そして、あまりに熱のある目で、その男を抱いていたことも。

「知らない…俺は、あんなの、知らない…」

「…佐倉」

 あれが、杜の侵してはならない領域だったというなら、絶対に知りたくはなかったのに。
 だが、それを知ることができなければ自分と杜が恋人にはなれないことも分かっていて、だとしたら、自分と杜のこれまでは一体何だったのかと瑛至は笑いたくすらなった。

「佐倉」

「…何」

 万里の呼びかけに応えたのは、多分ほとんど無意識からだった。頭の中を埋め尽くす杜のことを一瞬でもいいから忘れたくて、瑛至は縋るように万里の声に反応した。

「……見せたいものがある」

 


 

 万里に連れて来られたのは、夜にはあまり訪れたくない場所だった。
 高台にあるこの墓地は吹き抜ける風も一層冷たく、一応設置されている外灯もそう明るいものではない。何故こんな所に連れてきたんだと思いながらも、これがさっきの光景を一時でも忘れさせるためだとすれば、確かに間違ってはいないかもしれないと瑛至は思った。
 と、前を歩いていた万里の足がある墓の前で止まる。そしてその墓の前に立ち、灰色の墓石を何を考えているのか分からないような目で見つめた。そんな万里を瑛至はただ見ていることしかできず、一体誰の墓なんだろうと思いついたのは、墓の前に立って数分が経った後だった。
 だが、多分万里の知り合いの人間のものだろう墓の前で、墓の下に眠っているのは誰なのかと聞くこともできなくて、瑛至も万里と同じようにただただその墓石を見つめていた。

 

「…幼馴染が、眠ってる」

 そんな声が聞こえてきたのは、それからどれくらい経った後だったろうか。頭の中を空っぽにして墓石を見つめていたせいか、万里のその声は瑛至の頭の中にスウッと入ってきた。

「死んだのは、去年の春だ」

 

「さっき、佐倉が見たんだろう男の目の前で、自殺した」

 

 ひゅっと、息を呑んだ。

 

「こいつは…蓮は、どうしても、あの男が欲しかった。でも、蓮はあいつを手に入れることができなかった。…だから、あいつの目の前で、死んだ。死んで、あいつの心も、何もかも、永遠に手に入れたんだ」

 

「…杜は、あいつを、絶対に許すことができなかった。だから、ああやって、抱いてる」

 

 

 それが、あいつを――時田を、いちばん苦しめる方法だから、と。

 

 

 




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