ハデスが愛した男

 

 


 

 佐倉瑛至(サクラエイシ)が窪塚杜(クボヅカモリ)に会ったのは、瑛至が大学3年にあがったばかりの、春のことだった。
 経済学部の瑛至は、同じ学部の友人に薦められるがまま一つのゼミに入ることを決めたが、そのゼミの初回の演習を瑛至は今でも鮮明に思い出せる。いや、演習の内容は全く憶えていないのだから、その言い方は正しくないのかもしれない。

 だが、それまで生きてきた20年で、その時ほど心に残るような光景を瑛至は見たことはなかったのだ。

 



「あれ、瑛至一人で食ってんの?」

 そんな声が後ろから聞こえてきて、振り向いた先にいた男に瑛至は内心大きく動揺した。
 正確には、声をかけてきた男の隣に立っていた男に。

「う、ん。河田とかもう授業ないらしくて」

「まじで?あいつ単位あぶねえとか言ってたのに。なあ杜?」

 聞こえてきた名前に、瑛至の心臓は驚くほど簡単に跳ね上がる。
 その名前の男はひどくだるそうに笑って頷いたが、瑛至にとって杜の笑みはいつも感情が空っぽのそれに見えて仕方なかった。

 杜という男は、男の瑛至から見ても相当美形な男だ。
 連れて歩いている女もまるで日替わりのように変わるのに、その気取らなさと人当たりの良さで同性からの評判もいい珍しい男で、初めてゼミで話をしたときも、話下手の瑛至を気遣ってか杜はしきりに瑛至に話題を振ってくれた。
 今も、屈託なく笑いながら、瑛至の向かいに腰掛けたもう一人の男と話をしていて、誰がどう見ても、杜は顔が良くて性格もいい、およそ欠点らしい欠点が見つからない人間だった。
 だが、と瑛至は思う。
 あの時――ゼミの初回の演習で、ラウンドテーブルの向かい側に座っていた杜は、後で知った普段のそれとは180度違うとしか言いようのない、鋭い、そして尖った空気を体中に纏わせていた。
 そして、にも関わらずその目はあらぬところを見ているかのようで、まるで死人のように見えて。
 その空気と視線のあまりの距離に、瑛至は惹き付けられずにはいられなかった。

 

「っと、ワリ。ダチから呼び出し入ったから先帰るわ」

「おお」

 その声にはっと我に返る。
 だが、瑛至が気付いた時にはもう友人はいなくなっていて、瑛至と杜の二人だけがそこに残った。

「つーか、瑛至って相変わらず食べんの遅ぇよなあ。あ、だからそんな細いのか?」

 そう言って杜は小さく笑う。
 こういう、いたたまれない空気を作らないことに関しては、杜ほど長けている人間を瑛至は他に知らないと思う。

「ど、どうだろ。背低いのは昔からだし、体重もずっと軽かったから」

「あーーでもそれっぽいなあ。まあ食い終わるまで付き合ってやるから、カメペースで食え食え」

「カメって・・・失礼な。もっと早いよ」

 そう呟いて軽く睨んでやると、杜はおもしろそうに声をあげて笑った。その笑い顔すら作られた人形のように整っていて、写真になど全く興味のない瑛至でも、無性に杜が浮かべた表情を撮りたいと思う瞬間がある。
 これほど心に残るのにすぐに消えていく瞬間を、何か、形のあるものに残したいと思う一瞬が。

 

 

 結局、瑛至が大学を出たのは杜が帰って3時間経った後だった。
 瑛至が早めの夕食を食べ終えた後、杜はもう授業がないからと瑛至より先に大学を出た。その後ろ姿に、この後講義がなければ一緒にどこかに行きたかったと、普段の瑛至なら絶対に考えないようなことを何故か考え、溜息をつきながら瑛至は講義に向かった。
 だが、結局講義があったからこそそんな仮定が瑛至の頭に浮かんだのであって、実際は講義がなくても、瑛至は杜を誘う勇気はなかっただろう。そのことを瑛至は自分でもよく分かっていて、そんな自分を思うと瑛至は余計自己嫌悪に陥りそうになった。

 瑛至が、杜のことを好きなんだと自覚したのは、今からおよそ1年前、大学3年の冬のことだ。
 何年かぶりの大雪とかで、それでも落とせない講義があるからと無理やり大学に来てみれば、ほとんどの学生が休んでいた。教授の方も学生の欠席の理由が分かるからか、別に減点はしませんから、と何故かちゃんと出席した瑛至やもう何人かの学生にそう伝え、そして講義が始まって15分で帰ってしまった。来ていた学生には加点するという一言がなければ、いくら大人しい瑛至でもさすがに何か言わずにはいられなかっただろう。教授が帰っていった教室で、遠慮なく吹雪いている外の景色が窓から見えて、瑛至は大学に来たことを本気で後悔した。

「よお、瑛至じゃん」

 そんなところに現れたのが、杜だった。なんでここにいるんだとばかりに瑛至が目を見開いていると、「ったく、来るんじゃなかったよなあ」というぼやきが聞こえてきて、杜も瑛至と同じように講義に出ていたことが分かった。
 その時には、瑛至は既に杜を完全に意識するようになってしまっていたが、そんな自分がおかしいとは思いながらも、それが恋なんだと気付くほど瑛至は世の中を知っているわけではなかった。だから、杜と話すときは、必要以上に明るく話すようにしていたし、多分杜の顔が整いすぎているせいなんだろうと勝手に理由づけて、瑛至は色んなことから逃げていた。

「ほんとだよ。雪で前とかなんも見えなかったくらいなのに」

 それでも、やはり瑛至は杜に視線を合わせることはできなくて、教科書とノートをまとめる振りをしながら瑛至は視線を下げた。

「だな。つーか、さっさと帰ろうぜ」

 それに一つ頷き、瑛至は椅子から立ち上がる。誰もいない講義室にはその軋音すら響いて、何故かそんな音が変に心に残った。
 講義室の後ろの方に座っていた瑛至の位置からは、この講義室全体が見渡せる。
 いつもなら満杯の講義室に人が一人もいないとこうも広いのかと、講義室の階段を降りながら瑛至はそんなことを考えた。
 それは瑛至一人だったのなら決して思わなかったことで、瑛至と杜の二人きりだったからこそ考えてしまったのだとは、当然その時の瑛至には分からなかった。

 ――と、瑛至はそこで忘れていたことを思い出した。

「ゴメン、ちょっと待って。バスの時間確認する」

「は?お前バス通だっけ?」

「いつもは自転車だけど、今日はそういうワケにもいかないし」

「じゃあ送ってやるよ。車で来てるから」

「え?いいよ!バス停すぐそ…」

 ガクリ、と瑛至の体がぶれる。
 杜を振り向こうとした時に、濡れて滑りやすくなっていた階段に足を取られ、瑛至は自分に襲ってくるだろう腰と足の痛みを覚悟した。



「―――あっぶねぇ。大丈夫か?」



 襲ってきたのは、確かに痛みだった。
 体に回された杜の腕と、背中に感じる杜の体温は、瑛至の心臓に確かに痛みとして響いた。だが、それはもちろん苦しいとか、辛いとか、そういう痛みではなかった。
 瑛至の体を一気に侵蝕したのは、まるで、いきなりモノクロの景色に色がついたような、あまりに衝撃的すぎて痛みにしか感じない、そんな感情だった。

「おい?瑛至?」

 怪訝そうな表情をした杜が、その顔を瑛至に近づけるようにしてそう口を開く。
 見上げた先に見えた杜の目にどうしようもなく惹きつけられた自分を否応なしに意識して、ああ、これは恋なんだと瑛至は認めるしかなかった。

 




「不毛、だよなあ・・・」

 つい、そんな言葉が口をつく。
 幸い夜の8時の帰り道には誰もおらず、瑛至は慌てて自分の口を塞いだものの、そのことに気付いてふうと一つ息を吐いた。
 自分が男に恋なんてものをするとは思わなかった、と瑛至はいつも思う。
 これまで好きになったのはみんな女の子で、しかも口下手な瑛至はこれまで誰とも付き合ったことがない。というより、付き合いたいと思うほど好きになった子はいなかったのだ。
 なのに、どうしてよりによって、毎日、寝ても覚めても想ってしまうほど好きになった人間が、男なんだろうと瑛至は悲しくなった。
 瑛至とて、何度も杜を諦めようと努力した。好きでもない合コンにだって無理やり参加してみたし、友人同士の旅行に混じって女の子との交友を深めようともした。だが、誰と話していても、杜ならこう言う、杜だったらもっと…と、何でも杜と比較して考えてしまい、諦めることすら無理なのだと気付くのにもそう時間はかからなかった。

「…あーあ」

 無意識に、そんな声が瑛至の口から漏れる。
 そんなことにも気付かず瑛至はとぼとぼと家までの道を歩いていたが、次に曲がる角の向こうから争うような男の声が聞こえてきた。なんだ?と思いながら角にある電柱まで近付き、顔だけを出してみる。
 そこから見えた光景に、瑛至は思わず息を呑んだ。

 

「へえ?…ら何も……ないで俺に……とでも?」

「…そ……ない」

「じゃあ……だ?まさか……気が済む……言うなよ?」

「……他に……いい?何て……する ?」

 

 責めるような声が止み、瑛至はもう一つ息を呑む。
 そしてぎこちなく顔を元に戻し、今来た道を足音を立てないようにして戻った。
 つい声をあげそうになった口を右手で押さえたまま、瑛至は泣きそうになりながら家とは逆の方向へと歩いた。

 

 

 見えた先にいたのは、杜と、瑛至の知らない一人の男。

 杜は、その男にキスをしていた。

 

 

 




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