「海老原、もう帰んの?」

「ああ。じゃあな」

 講義が終わってすぐ、海老原は友人への挨拶もそこそこに教室を出た。
 本当は昼過ぎには帰ろうと思っていたのだ。朝から酷く乱暴に抱いた男がどうしてもと言うから大学に来ただけで、講義を受けている最中も教授の話などほとんど頭に入っては来なかった。だが、運悪く昼前に友人たちの何人かに捕まり、しょうがなく午後の講義を受けてはいたものの、30分も経たないうちに早く家へと戻りたいとただそれだけを考えていた。
 ギリ、と思わず拳を握る。
 いつから、一体いつから己はこんなに弱い人間になったのかと、海老原は無意識に早足になっていた歩みを緩めた。
 たかが一人の人間のせいで、他の事が何一つ頭に入ってこないような甘い人間にいつの間に成り果てたのかと。
 だが。

『大丈夫だよ、海老原』

 そう言って、笑みを浮かべた航が、あまりに何もかもが遠くて。
 遠くさせたのは紛れもない己自身であるのに、それを多分航ですら気付くほどの不自然さで己の下へと無理やり引き戻そうとしている自分は、一体どれほど愚かなんだろうか。

 

 

 

 これまで、一度もそんなことをしなかった航が、海老原に抱いてくれと言ってきたのはつい1週間前だ。
 その台詞と航の不釣合いさに一瞬目を見開いて、だがその時の航の顔があまりに切実で、海老原は小さく笑みを返してから、そのまま航にキスをした。その時の航はそれまで一度も見たことがないほど何もかもが濃密な空気を纏っていて、それは海老原の情欲を酷くそそった。
 だが。
 どうしようもない違和感も、拭い去ることはできなかった。
 ――キスをするとき、いつも航は一瞬だけ酷く痛そうな顔をした。
 それに気付いたのはもう半年も前だったが、どうやら航自身ですら無意識らしいその表情の理由を問うことはとうとうできなかった。
 けれど、その時の航は、痛そうな顔も、ましてや幸せそうな顔も、どんな表情もその顔に乗せてはいなかった。
 ただひたすら目の前の海老原に没頭していて、にも関わらずその心は決してそこには止まっていない。そんな表情をしていて。
 なのに己の背中に回される腕も、腰に絡みつく脚も、その全てが色にするなら群青や濃紺とでも表現できるような強烈な生を放っていた。

『足、りない、海老原』

 そう言って、海老原が航の腹の上に吐き出した精液を、本当にお前は航なのかと問いたくなるほどの淫靡さで指で掬い取って、舌で舐め取って。

『まだだ。まだ、出て行くな』

 そう言って、耐え切れずに航の中に精を放った海老原が出て行くのを、娼婦のような表情と声で遮って。

 

『あいしてるよ』

 

 そう言って頬を撫でながら、海老原に口づけた。

 

 

 

「・・・・・・っ」

 その時の感触がまざまざと思い出されて、海老原はブルリと背筋を震わせた。
 まるでガキだと海老原は思う。もう1週間も前のそれを思い出して、記憶の中の相手に欲情するなど、中坊でもしないだろうにと。
 だが、それでも、もう目の前に見えてきたマンションの中にいるだろう男を、多分己は今日の夜も抱くだろうと、海老原は心の中で自嘲した。
 きっと、ただひたすらがむしゃらに抱いて、抱いて、抱いて。
 そして、日に日に希薄になってゆく航を、離さないように。
 あの、 何もかもが優しすぎる男を。
 自分以外の誰かが背負ってもいいだろう色々なものを、全て自分ひとりで背負い込もうとする。
 そしてそれは目に見えるものだけではなくて、むしろ目に見えないものの方が多い気さえするような。 
 そんな、崎谷航という人間を。

 どうにかして、‘此方’へ引き止めておくために。

  


 

「ただいま」

 そう言って中に入ると、いつもならすぐ返ってくるはずの航の「おかえり」という声がしなかった。
 だが、まあそれも仕方がないかと海老原は小さく口角を上げる。今日の朝、獣じみたしつこさで航を責め苛んだのは紛れもない自分で、海老原が家を出るときも航の瞼は今にも閉じられる寸前だった。
 昼に航の寝顔を見るのは久しぶりかもしれないと、海老原は何故かいつになく優しい気持ちになって、ゆっくりと靴を脱ぐ。その隣にはきっちりと揃えられた航の白いスニーカーがあって、ああ、何もかもがあたたかで、やわらかいと、海老原は感じた。

 そういえば、航は何故か白い色が酷く似合う。
 それは汚れを許さないような目に痛い白ではなくて、着古したかのような、生成りの白だ。
 一度そのことを航に言えば、航は少しだけ嬉しそうな顔をして、それから一緒に出かけるときは決まって生成りを着ていたような気がする。

「――ク」

 小さく、笑みが漏れた。
 航ほど生成りのシャツが似合う人間はいないと本気で思う自分はもしかしたら本当の馬鹿かもしれないと自嘲しながら、海老原は静かにリビングのドアを開けた。

 

 

 



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