学校から家に戻ると、今日は5コマまであると言っていたはずの航が何故かもう家にいた。
 帰ってきた海老原にも気付くことなく、窓の傍にある椅子に腰掛けて、航はぼうっと窓の外に眼を向けていた。

「ただいま」

 いつもするようにそう言うと、何故か航は酷く驚いた様子で海老原の方を振り向いた。

「お、かえり、海老原」

「どうかしたのか?」

「…何も」

 カタン、と小さく音を立てて、航はゆっくりと椅子から降りた。
 カウンターに置くような脚の高めの椅子は、海老原が引越しの時に家から持ってきたものだ。海老原が住んでいた部屋の中にはカウンター式のキッチンがあって、その椅子によじ登るようにして腰掛けていた里香を、その椅子を見るとどうしても思い出す。
 そして、その椅子につい今の今まで腰掛けていたのが里香に手をかけた男だという事実は、やはり海老原に強い負の感情をもたらした。

「…それ、壊れやすいから、もう座らないでくれる?」

「え…あ、そうだったんだ。ワリ」

 すまなそうな視線を海老原に向ける航を無視して、海老原はその椅子を持って自室へと向かう。
 悪いのはこの椅子を居間に置いていた海老原自身であるのに、たとえそう分かっていたとしてもこの感情を抑えこむ自信もないし、そうするつもりもなかった。
 自分は感情が表に出ないのだから別に構わないだろうと、今も、そしてこれまでもずっとそう思いながら生きてきた。
 整った顔を十分に利用して、目的の為だけに色々な人間に近付いて、そして簡単に捨てた。そんな自分を芹はいつも咎めるような視線で見てはきたが、やめろとは言わなかった。
 海老原と同じように航を憎んで、そして航に復讐するために用意が必要なんだと海老原が言えば、そうかと言って頷くだけだった。里香しかいなかった海老原をずっと見てきた芹だからこそ、人の道に外れたことを続けていた海老原をただただ見ていてくれた。
 一緒に暮らし始めたのだと伝えた時は、さすがに「気でも狂ったのか」と信じられないものを見るような目で見てきたが、「好きにさせて、捨てるんだ」と言うと、いい趣味だなと言って笑った。
 そういえば、この椅子の上で、芹が里香を抱いて飯を食べたこともあったかもしれない。
 今にも壊れそうな木製の椅子を自室のベッドの傍に置いて、海老原は少しだけ昔を思い出した。あまりに幸せすぎて、そしてあまりに短かった里香と過ごした日々を。
 ――と、そこにノックの音が響いた。
 当然そんな人間は一人しかいなくて、海老原はゆっくりと目を閉じる。頭の中を過ぎった過去の時間を今だけは忘れて、そして、その時間を奪った男への憎悪を表面に出さないように感情を殺して。

「…どうぞ」

 そう言って、再びゆっくりと目を開けた。
 すると、キイと小さくドアが軋む音がする。ドアを開けて現れた人間にニコリと空虚な笑みを見せると、航は開けたドアを閉めて、そして何かを持った右手を差し出した。

「これ、海老原の腕時計だろ?その椅子に乗っかってた」

「…ああ、ずっと探してたんだ。サンキュ」

「いや」

 そう答えて、航は力なく笑った。
 その笑みに、いつもにも増して希薄だなと海老原は他人事のように思う。
 最近ずっと、前のようにドロドロに甘やかすことができなくなった自分を海老原は分かっている。だが、もうとっくに航は自分に溺れているだろうことには確信があって、だから、もう別に前ほどそうしなくてもいいだろうと海老原は自分に思い込ませた。
 本当は、航を甘やかしている自分と航を憎む自分との距離がどんどん近づいていって、時にはどちらがどちらだか分からなくなるせいなのだと知りながら。
 それを、どうしても認めたくなくて。

「なあ、海老原」

 と、そこに航のそんな声が聞こえた。
 航から海老原に話しかけてくるのはそうあることではない。珍しいなと思いながら、「何?」と問い返すと、航はやはり力なく笑って、そしてゆっくりと口を開いた。

 

「…その椅子、海老原の大事なもん?」

 

 一瞬、頭の中が真っ白になった気がした。
 それは、多分顔にも出てしまっていたはずだ。目をぎりぎりまで大きく見開いて、そして声にならない声が喉の奥に消えたようにさえ思う。
 その様は目の前の航に十分見て取れたはずなのに、航はやはりかなしそうに笑っているだけだった。
 その笑みに違和感を感じる余裕はその時の海老原にはなくて、それに気付いていれば、そして、航の顔にうっすらと残る涙の跡に気付いていれば、もしかしたら、もう少しあの哀しい瞬間を延ばせたのかもしれない。

「ごめん、変なこと聞いたな。あ、じゃあさ、海老原の好きなもんって何?」

「…好きなもん?」

「そう。そうだな…好きな食べ物とか、好きなスポーツとか」

 好きな、食べ物。
 その言葉に、海老原は無意識に口を開いた。

 

「…ラムネ」

 

 それはきっと、海老原が航に見せた、初めての本心だった。
 いや、本心というより、海老原が隠し続けた内側の、そして、海老原が全て無くしたと思っていた、心の中のやわらかな部分。

 海老原がゆっくりと航の命を殺いでいったように、航は、ゆっくりと海老原が捨てた色々なものを、少しずつ海老原に返していったのだ。

 そうとは気付かせないほど、少しずつ。

 

「そっか」

 航の声に、海老原はハッと我に返った。
 そして馬鹿なことを答えてしまった自分に、内心チッと舌打ちが漏れる。
 本当はラムネなど別に好きでも何でもないのだ。むしろ甘いものが嫌いな海老原にとって、苦手な部類の食べ物と言っていい。
 ただ、妹が。
 ――里香が、ラムネが好きだっただけだ。
 あの、海老原には砂糖の塊にしか思えない小さな粒を、いつもひどく美味しそうに食べていたから。

「…飯、今日どっか食いに行こうぜ」

 もうこの話題はやめようと、海老原は唐突だとは思いながらもそう言った。
 いつもならそろそろ夕飯を作る時間だが、何故か今日は作る気分になれそうになかった。

「何食いたい?」

 そう言って、航から目を背けるように海老原は窓の外に視線を向ける。もう空が赤焼けてきていて、冬は日が落ちるのが早いなと柄にもないことを考えたりした。

 すぐ傍の航が、今にも泣きそうな顔で海老原を見つめていたことを知らずに。

「…寒いし、鍋料理とかは?」

「あ、それいいな。じゃあ少し遠出しようぜ。車出してくるから」

「うん」

 ほとんど航に視線を遣ることなく、海老原は部屋から出る。
 どこか焦ったようにマンションのエレベータに乗り込んでから、やっとちゃんと息ができた気がした。

 

 

 微かに、けれど確かに何かが動いて。

 そして、何かが壊れた。


 そんな、冬の日だった。

 

 

 




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