スウと煙を吸って、そしてゆっくりと窓の外に吐き出した。
 夏の夜風はどこまでも生ぬるくて、煙を一気に吹き飛ばしていってはくれない。ただスウッと空気の中に溶け込むように消えていく煙草の煙が、何故かたった今抱いた男とだぶって、海老原はグシャリと煙草の火を灰皿に押し付けた。
 容易く空気の中に溶け込めるくせに、その煙はどこまでも己に有害でしかない。
 それはまるで航そのもので、そしてそんな航を何時にない激しさで抱いた自分が信じられず、海老原はついチッと舌打ちが漏れた。


 相当、酷い抱き方をしたはずだった。
 全てを見抜かれたような台詞に自分の中の何かが弾けて、笑みを顔に乗せていたつもりだが本当に笑えていたかはどこまでも怪しい。酷薄な双眸をしたまま身体を近付けた海老原に、航は目にも明らかに怯えていた。
 なのに、どうして。
 どうして、一言も拒絶するような言葉を言わなかったのだろう。
 これ以上己の顔を見せたくないがために口づけて、それはこれまで情のない女を何人も抱いてきた自分らしい何の温かみもないそれだったろうに。
 いつもの穏やかで優しい自分ではなくて、人として最低で、何もかもが欠落している自分を、まるでそんな己が欲しかったんだとでも言うぐらいの健気さで、航は海老原が与える痛みに耐えていた。



 ――簡単だと思っていた。
 人を憎むことは、多分自分にとって誰かを愛することより遥かに簡単だろうと。
 勝手に離婚を決めて、勝手に海老原と妹を離した血の繋がった両親ですら憎むことのできる非情な自分なら、きっと、と。
 だが、今ならそれは違かったのだと海老原は思うことができた。
 両親に抱いていた感情は憎しみとか嫌悪とかそういうものだとばかり思っていたが、違うのだ。
 もともと他人に興味を持てない己が、あんな最低な父親と母親に、たとえそれが憎悪であれ何か感情を持てるはずもなかった。
 もうとっくに、両親への何かしらの感情は全て失せて。
 ただその感情の欠如を、勘違いしていただけなのだ。

 だから、気付くのに時間がかかった。
 3年の間――1000日以上の長い月日をかけて、頭の中の全てを占領していた男を憎み続けたということが、どれだけ自分にとって異常だったのか。
 たとえそれがどこまでも暗く歪んだ感情であっても、海老原はずっと、唯一人を思い続けたのだ。
 憎んで、憎んで、憎んで。
 そして、同じ3年という時間をかけて殺すためだけに、今すぐにでも首を絞めてやりたい衝動を堪えて、一つ屋根の下で暮らして。


『…あったかいな、人って』


 痛みしか感じさせないような交わりの後、本当に嬉しそうにそう言った、崎谷航という人間と。





「…クソったれ」

 ――離れたかった。
 それは決してできないということを分かっていても、それでも海老原は航と離れたくて仕方なかった。
 こんなことなら、名も知らぬ関係のまま、ただ心臓にナイフを突き立てればよかった。
 夜の、誰もいない川岸から、あの昏い川底にただ突き落とせばよかった。
 そうすれば、隣に眠る男が、海老原のする何もかもに喜ぶ姿も、時々垣間見せる息が止まるような希薄さも、「あの時」に年を置き忘れてきたかのような幼い面影も、見なくて済んだ。
 そんな航に、どうしようもなく心を動かされる己も、知らなくて済んだ。
 だが、海老原はそれが自分が航に惹かれているせいだとは微塵も思わない。ただ、人を憎み続けることの難しさを教えてくれただけなのだと、頑なにそう思って。
 その度に、「お兄ちゃん」と海老原を呼んだ、声の出せない里香の明るい笑みを思い出して、何度も何度も航が妹を殺した男なのだと過去を呼び起こしているというのに。
 そうでもしなければ、優しくて穏やかな自分の仮面が今にも外れそうになるというのに。
 まるで春のやわらかな日差しのような全てで、海老原の固い殻をそうとは気付かせないほど航は優しく壊してしまいそうなのに。

『…もし誰か殺すんなら、それがどんだけ残酷な方法でもさ、のたうち回って死んでく男を冷静に最後まで見ていることができそう、みたいな』

 人が良く、柔和で、静かで、目立たなくて。
 そして何も見ていないような、虚ろな眼にしか見えなかったそれは、占人のように海老原の本質をその深淵までとらえていた。
 その事実は、海老原に少しではない衝撃を走らせた。
 ただただ純粋に己を好いていると思っていた人間が、無意識に己という人間の奥底まで見ていたという事実に。
 だが、ああそうだと、心の中で頷いている自分もいるのだ。
 その言葉どおり、己が知る何より残酷な方法で航を殺して、そして、最後に酷く冷たい眼でその体を見下ろしてやると決めているのだと。

 なのに。
 なのにどうして、まるで全てを吹き飛ばすような激しい嵐が、己の体の中から去ってはくれないのだろうか。

「…チッ」

 苛々と、海老原はもう一本煙草を取り出し、火をつけて深く煙を吸い込んだ。
 思い切り深く吸い込んだ煙はそれに慣れた肺にもやはり苦くて、海老原は少し顔を顰める。だがその強い苦さにもすぐ慣れ、いつもするようにゆっくりと口から煙を吐き出した。

 もう、数年の付き合いになる見慣れた紫煙が消えていく様を、海老原は何の感慨もなく見つめる。
 どうしてこの煙が航とだぶったりしたのだろうと思いながら、考えることを放棄するかのように海老原はもう一度深く煙を肺に吸い込んだ。


 麻薬以上の強い依存性がこの煙にはあると知っているのに、知らない振りをして。

 

 



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