12


 

「俺が殺した」 

 海老原がそう言うと、目の前の医者は大きく目を見開いた。
 航が死んだと電話してから20分と経たずにやってきた医者は、走ってきたのだろう、まだ少し息が荒い。そして、部屋に着いた途端聞かされた台詞に、少なからず驚いているようだった。
 だが、その表情は何故か一瞬ですぐに別の表情に取って変わった。
 医者は、酷く痛ましいものでも見るような目で海老原を見返して、そして、静かに口を開いた。

「彼は、自分で砒素を飲んだと言っていたよ」

「な、んだ、と?」

「…それから、もし誰かが違うと言ったとしても、信じないでくれと」

 ――驚いた以上に、いつの間にという気持ちの方が大きかった。
 血を吐いて倒れていた航を病院に連れて行った日の翌日には、航は海老原の部屋に帰ってきていたのだ。航の頑ななまでの「入院はしない」という言葉に医者も折れるしかなく、航が死ぬその時までずっと、海老原は航と二人きりでこの部屋にいたのだから。

「…死に際の病人の言うことなんて信じるな」

「そうかもしれない。でも、死に際の人間の頼みを聞けないほど、僕は良心を捨ててはいないんだ」

 そう言うと、医者は「失礼」と言って靴を脱いで部屋に上がる。そしてリビングに入り、そのまま航のいる寝室へと向かった。海老原は何も言わずにその医者の後に続く。医者は、航の心音、呼吸、そして瞳孔を調べて、それから目を閉じて手を合わせた。しばらくして目を開けると、ゆっくりと立ち上がり海老原の方を振り向き、口を開いた。

「…君は、彼の遺体を葬る気はあるかい?」 

「………どういう意味です」

「もしなければ、僕にさせてほしいと思ってね。罪滅ぼし、みたいなものだから」

「断る」

「…だと思っていたよ。でも、崎谷くんから言伝があってね」

 最初から海老原の答えを知っていたような口ぶりの医者は、そう言って海老原に微笑んだ。常の海老原なら、知っているなら言うなと厭味の一つや二つは言っていただろう。だが、航の言伝という言葉に海老原は答えを急ぐ方を選んだ。
 もしかしたら、航のこと以外の何もかもが、海老原にはもうどうでもよかったのかもしれない。

「…何です」

 

 

 

  

『先生、あいつに言っておいてほしいことあって』

『なんだい?』 

『俺の体、火葬したら、灰になりますよね?その灰、どうしようと海老原の好きにしていいからって』

『…え?』

『海に沈めちゃってもいいし…それに』

  

 

 

「川に流してもいいからと」

 

 

 

 

 

 

「――ハ」

 医者が玄関のドアを閉める音が聞こえて、それから、海老原は小さく笑った。

 何もかも。
 そう、何もかもが、すべてが、自分が思い描いていたとおりになった。
 妹を殺した男は、死んで。
 そして心音を止めた男の体は、自分のもので。
 その体を、妹を喪くしたあの川の底に沈めれば。
 全てが、終わる。

 だが。

「…終われるわけ、ねえだろう」

 ク、と海老原は小さく笑う。
 もう、終われないことは、分かっていた。
 己の望みは、15の時から願っていたものとは、もう何もかもが変わってしまって。
 こうして目の前に何より望んだものがあるのに、それを何より望んでいなかったと知ってしまった時に、もう終わることはできないと決まっていたのだ。

 航が眠りにつくように逝った時、知らず涙が流れた時点で、もう。

 

  

 ふと窓の外に目を向けると、青い空が見えた。
 相変わらず蝉がうるさく鳴いていて、ああ、本当にこれから暑くなるだろうと、海老原は航と同じことを思った。
 ――航は、最期まで海老原を責めなかった。家に帰りたいという航の言葉に、どういうつもりだと声を荒げたのがもう遠い昔のように思える。それに「どういうって、ただ家に帰るだけじゃん」と何でもないことのように言った航の笑った顔も。

 航が死ぬまでの数週間は、倒れた日の前日までの生活と何ひとつ変わらなかった。
 当然航は毎日のほとんどをベッドの上で過ごしたが、海老原が買い物をして帰ってくるといつも決まってリビングのソファで海老原を待っていて、そして「おかえり」と言って笑った。
 そんな航に海老原は怒って、一体同じことを何度言わせるんだと怒鳴ると、航は怒鳴っている海老原をひどく嬉しそうに見上げていた。

 本当に、何もかもが、前と変わらなかった。――もちろん、航は、だ。
 海老原は、何も知らなかった頃のように優等生然として航と接してはいたが、時折己の感情を持て余して、感情の赴くまま航を酷く乱暴に抱いた。
 既に体のあちこちがボロボロな航にとって、その行為は命を縮めるものでしかなかっただろう。だが、そのことを誰より知っていたはずの航は、それでも海老原をその細い体ですべて抱え込もうとしていた。そんな航にどうしようもなくなって、抱く度に航の首に手が伸びそうになる海老原に、航はそれでもやわらかく微笑んだ。
 そして、「あいしてるよ、海老原」と言った。
 何度も、何度も。
 愛していると。

 

「―――ッッ」 

 思い出す。何をせずとも、脳裏に浮かぶ。
 航の顔、航の匂い、航の肌、航の体温――もう二度と手に入らない何もかもが、欲しくてたまらなかった。
 あのやわらかい笑みも、日の下に干した洗濯物のような匂いも、やさしさしか返ってこないような肌も、いつ触れても手のひらに馴染んだ体温も。
 崎谷航という人間の、何もかもが。

 

 ――会いたかった。

 もう一度、航に会いたかった。

 

 会って、愛していると、囁いてやりたかった。

 

 

 

 カサと音を立てて、ポケットから小さな瓶を取り出す。
 航が死んで、医者が来るまでの間にしたことで覚えているのは、この瓶を台所の食器棚から己の懐に入れたことだけかもしれない。
 取り出した小瓶を窓から漏れる光に翳すと、もうずっと手に取ることができなかった小瓶にはまだ半分以上白色の粉が残っていた。
 ――死ぬには、十分すぎる量だった。
 だが、もう人として歪み切った己には、それでも足りないのかもしれない。
 そう心の中で呟いて、海老原は小瓶の蓋を静かに開けた。その小瓶の向こうに航が見えて、そういえば、顔に白い布でもかけてやらなきゃならなかったんだろうかと思い、それから少しだけ笑った。
 そして、取り外した蓋を静かに床に落とす。カタンと無機質な音が部屋に響いたが、床を転がった蓋は何かにぶつかって音を立てるのをすぐにやめた。

 ゆるりと、眠ったままの航に視線をやる。
 もう二度とその双眸が開かれないことが信じられないような、穏やかな顔をした航がそこにはいた。
 死ぬ前に見るには、やさしすぎる光景だなと思いながら、それでも、隣に航がいる場所で死ねるのは、あまりに幸福だった。

 幸福、だった。 

 

 

 手に持った瓶を口元に持っていき、瓶の中の粉を、全て口の中に放り込む。

 何故か、手は一度も震えなかった。

 

 

 

  

 これで、終わる、と思った。

 そう、祈るように、願ったのだ。 

   

 

 

 

 

「……だよ、これ…」







 

 なのに、舌に広がるのは、

  

「な、んだよ、これ」

 

 甘い、ただただ、甘い、

  

「なんなんだよ、これは…っっ!?」

 

 

  

――じゃあさ、海老原の好きなもんって何?

 

  

 

「どういうことだ、航――――――っっ!!」

 

  

 

 

 ――ラムネの、甘味だけ。

 

 

 

  

 

 どうして。

 反吐が出そうだと思いながら、「好きだ」と囁いた俺を。
 優しさのひとかけらもなく、酷い抱き方をした俺を。
 お前のことを、この世の誰より憎んでいた俺を。

「どうして、愛した――!?」

 お前は、知っていたはずだ。
 俺がお前を愛していないことも。
 俺がお前を殺そうとしていたことも。
 なあ、航。
 お前が俺を愛した理由が、俺は分からない。
 愛されない理由なら、山ほど、思いつくのに。

 なのに、馬鹿だろう?
 だったら、お前が俺を愛していたなんて、嘘だったと思えばいいのに。


 俺は、お前が俺を愛していたことを、多分、この世の何より信じてるんだ。

 






 ――あいしてるよ、海老原。   

 






 そう航が遺した言葉だけが、俺のこの腐りきった躯で、あまりに清冽で、清浄で。

 そして、その清浄さを、俺はきっと生涯希い続ける。

 生きながら膿んでゆくだろう俺の精神が続く限り、それだけを、ずっと。 




 

 

 それが、憎みきることもできず、そして死ぬこともできなかった俺の、全てになる。

 
 
 



 

 あとはもう、何もかもが。

 そう、何もかもが。












 誰より愛した、あの男とともに。









 

 

 

  

                                                  End. 

  


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