11


 

 閉じられていた双眸がゆっくりと開けられたのは、航をここに連れてきてから4時間が経った頃だった。開かれた瞳は真っ直ぐ上を見つめ、それからゆうるりと海老原の方に向けられた。
 その瞳の相も変わらず透明な様に、海老原は大声で叫びだしたいような気持ちになる。その欲求をぎりぎりのところで堪えて、そして感情を押し隠したまま航を見つめ返した。
 だが。

「お、かえり、」

 己の名前を呼んで、そしてそんなことを呟いた目の前の男に、海老原は自分にもまだこんなに激しい感情が残っていたのかと思うほど激昂した。
 その言葉に、そう言うことができたことに満足したかのようにゆるく笑う航を、どこまでも傷つけてやりたかった。

 

「死ぬんだって?」

 

 だから、前置きもなにもなく、そう言ってやった。

「医者に聞いた。お前の内臓、まともなのがほとんどないんだって?悪性の腫瘍だらけで」

 口を開くたびに、顔を強張らせてゆく航に薄暗い感情の充足を覚え、それでも飽き足らずにさらに航を追い詰める言葉を紡いだ。

「で、あと3ヶ月持てばいい方だって?」

「…海老原」

「ハッ、笑えるぜ。お前、ずいぶん前に知ってたんだってな。1年前ならまだ助かったのにってあの医者言ってたぜ」

 ――笑えなかったくせに。
 大声で笑い出してしまいそうだと思いながら、どんなに待っても笑うどころか口の端を上げることすらできなかったくせに。
 ただただ、愕然としていたくせに。
 そう、心の中で過去の自分を責めて。そして責めながら、今己が言った台詞に海老原は数時間前の己の感情が舞い戻ってくるのを確かに感じていた。
 それに名前をつけたら、一体なんと呼ぶんだろうか。
 ――その名前を心の中で思って、海老原はギリと握っていた航の手首に力を込めた。

「……大したもんだよ、航。この俺を、2年も騙し続けるなんて」

「ちが…」

「違わねえだろ?お前、知ってて俺の作った朝飯も夕飯も食ってたんだから」

 そう言うと、航はひゅっと息を呑んで、そしてただでさえ青白い顔をさらに白くさせた。それは、海老原が言ったことが事実だったという証明をしているようなもので、そのことに海老原は今度こそ笑い出しそうだった。

「でもいい心がけだったぜ、航。お前は人殺しなんだから、俺に殺されたって文句言えねえだろう?」

 だが、やはりそれでも小さく笑うことしかできなくて、海老原は前よりもさらに強く航の腕を掴んだ。そしてその腕の細さを前から知っていたにも関わらず、性懲りもなく内心息を呑む。己の腕の半分もないような折れそうな航の腕は、まるで死への助走にすら思えて、海老原は目を見開いて自分を見つめる航を何時にない激しさで見つめた。

 

「…ごめんな、海老原」

 なのに、聞こえてきたのは、常に聞いていたような、穏やかで静かな声だけだった。
 そしてその表情はやはりいつもの航のそれで。
 その事実に、海老原はただ呆然と空虚な声をあげることしかできなかった。

「ごめんなさいって…ずっと、そう言いたかった。許してもらえないって分かってるけど、謝りたかった」

 その言葉に、真夜中に飛び起きては窓の向こうに首を垂れていた航を思い出す。
 ああ、あれは妹と己の二人に向けられていたのかと冷静に思えたのは確かなのに、それ以上に、目の前で言葉を紡ぐ航の顔から目を離せなかった。



「…海老原のそばにいたかったから、どうしても、言えなかった」

 

 そう言って、ゆるりと微笑んだ航は、まるで、すぐにでも向こうの世界に行ってしまいそうなほど、何もかもが遠かった。
 そして、あの、自分を見ているようでけして見てはいなかった航と今ここにいる航の顔がだぶる。それは、その時の背筋が震えるほどの激しい感情の高ぶりすらまざまざと思い出させて、海老原は目の前が真っ赤に染まったような気さえした。
 だが赤に染まった視界は、すぐに黒く――どこまでも黒く、その色を変えた。

 

 たった一人の妹を喪わせたこの男を殺すために、偶然を装って近付いて。
 男のよく言えば温厚な性格を利用して、強引に一緒に暮らし始めて。
 反吐が出そうなほど優しくして、甘やかして、溺れさせて。
 同時に、男の食事に少しずつ、毒を混ぜ続けて。

 男は――航は。
 世界中の誰より憎んでいた、崎谷航という人間は。
 その、己の望んだ道程どおりに、あと少しで、この世から、消える。


 消えて、なくなる。

 

「……誰より憎かったよ、お前が」

「…うん」

「お前が妹を殺したって知った日から、世界中の誰より、殺してやりたいほど憎かった」

「……うん」

「なのに俺は……っ」



 なのに、俺は。

 航の、「あの時」に歳を置き忘れてきたかのような幼い面影とか。
 航のために作った優しくて穏やかな己ではなくて、人としての何もかもが欠落している己が欲しかったのだと言うような、どこまでも馬鹿で健気な様とか。
 ずっと、いつまでも抱いていたいような、やわらかな笑みとか。
 そんな、知らなくてもいいような色々なことを知ってしまって。

 俺は。

 この誰より憎くて、この手であの川の底へ沈めようと思っていた男を。
 妹を、殺した男を。

 誰より愛していたはずの妹より。

 

 

「…あと、少しだから」


 抱きしめていた航が静かにそう呟いて、海老原は伏せていた顔を上げた。すると、航はやはりいつものように静かに微笑んで、海老原の髪を撫ぜた。
 そのあたたかな仕草に、一瞬今を忘れる。
 だが、航の口から続けられた言葉に、海老原はそのまま呼吸を止めた。



「俺がお前の前から、消えてやれるまで」



 冗談でも何でもなく、体のどこもかしこも動かず、呼吸の仕方すら忘れそうだった。

 ――この1年、口癖のように言っていたその言葉の続きが、それだったというのなら。
 そう言うたびに、航が心の中でそう呟いていたというのなら。
 嘘でしかなかった言葉が本当になって、そして、本当になってからは言うことができなくなった言葉を、最初から信じていなかったというのなら。
 なあ、航。
 俺の反吐が出そうな言葉を、端から信じていなかったというのなら。
 俺がお前を憎んでいたことを知っていて、そして、愛されていないことすら知っていたというのなら。


 どうして、それでも尚、俺を愛した?

 

 

「…海老原、いっこだけ、頼んでもいいかな」


 ――何だと、返す余裕など、どこにもなかった。


 だが、海老原の髪を撫ぜながら、静かに、どこまでも静かに紡がれたその「願い」に。

 



 いっそ、殺してしまおうと思った。



 

 本当に、そう、思ったのだ。 




 

「…お、前に、ころして、もらえるなら、それが一番いい、んだ」


 けれど、途切れ途切れになりながら、航はそんなことを囁いて。


「お前が、終わらせてくれる、なら」


 そして、目を閉じたから。


 微笑みながら、幸せそうに、目を閉じたから。

 


 

 

 

 

 

「蝉、鳴いてるな」

「ああ」

「暑くなるなあ、これから」

「そうだな。――ホラ、林檎剥いたから食え」

「うん。…あ、水もらっていいか」

「分かった」

 

「…海老原」

「あ?」

「………海老原」

「ちょっと待て。今持ってく」

「………び…は、ら」

「…ったく、ほら」

「…………」

「…航、どうした?」

 

 



 

「―――航?」

 


 




 



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