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 近所のスーパーの裏に病院があった。
 そう即座に考えられたのは、あの時の自分を思うと奇蹟のようなものだったかもしれない。

 車から降りて、後部座席に横たえていた航を抱えてから、海老原は病院の入り口のドアを壊すぐらいの勢いで開けた。
 中に入ると、病院特有のツンとした消毒薬の匂いがして。
 そして、何事かと飛び出してきた若い医者が海老原の方へと小走りにやってくるのが廊下の暗がりの向こうに見えた。

「どうしまし……、崎谷君!?」

 腕の中の航を見て、医者は驚いたようにそう言った。何故航を知っているのかという疑問が浮かんだのはそれからずいぶん経った後で、海老原は医者が航の首筋に手を当てているのを、まるで自分ではない誰かが見ているような気持ちで見ていた。

「こっちへ!」

 だが、医者のそう怒鳴る声に我に返り、医者の後に続いて急いで診療室へと入る。
 腕の中の航は全く意識を取り戻す様子はなくて、海老原は自分の体が微かに震えているのに気付かない振りをした。
 航の口元を染める赤い色にも。

 

 

 

「…昇圧剤を打ったから、あと数時間もすれば目が覚めるよ」

 診療室から出てきた医者は、そう言って一つ息を吐いた。そして待合室の長いすに腰掛けていた海老原の近くに座り、両膝に肘をついて頭を下に下げた。

「……君は、彼の友人かい?」

「…ええ」

「一緒に暮らしているっていうのは君?」

「そうです」

「……なら、彼の病気のことも知ってるのかな?…彼は、身内がいないと言っていたから」

 ――病気。
 その単語に心臓がドクリと大きく波打って、海老原は医者の顔を見ることすらできなかった。だがそんな海老原に医者も気付いたのか、「そう」と静かに呟いて、その場に沈黙が流れた。
 消毒液の匂いのする待合室に流れているのは、暗くて重い、澱んだ空気でしかない。それはどこか、つい数十分前にリビングのドアの向こうにあったそれとひどく似ている気がした。
 あの、全てがモノクロで、航の体の下に広がる赤だけが禍々しく色づいていた空間と。
 ――その時の光景が海老原の視界を一瞬で覆って、すぐに消えた。
 はやく、はやくその“病気”のことを言えと心の中で言葉を紡ぐ。

 だが、同じぐらいの強さで、海老原はどんな言葉も聞きたくはなかった。

「なあ、君でも、彼を止められなかったのか?」

「…え?」

「1年前なら、まだ間に合った。だが、それからも……砒素を採り続けたんだろう、彼は。もう、彼の体にはまともな内臓がほとんどない」

 

「…あとは、ゆるやかに死に向かっていくだけだ」

 

 もう少しで、声をあげて笑ってしまいそうだった。

 思い通りじゃないか。
 何もかもが、己が待ち望んでいた結果だ。
 色々なものに鈍い男の食事に砒素を混ぜ続けて、こうして殺すつもりだったのは紛れもない自分なのだから。
 それが計画していたより少しばかり早い、ただそれだけなのだから。

 なのに、どうして俺はこうも愕然としている?
 どうして、体の震えが止まらない?

 

「神様が俺にくれた罰だからって、彼は言ってたけど、そんな罰、あるわけないのになあ…っ」

「――どういう、ことです?」

 怒りで拳を震わせているのだろう医者は、顔を下に向けたまま、感情を無理やり抑えこんだようなギリギリの声で口を開いた。

「…この前診察したとき、僕はどうして治療を受けなかったのか聞いたんだ。……彼は、『俺は、死ぬべきだったから』と」

「死、ぬべき、って、」

「……俺は人殺しだから、と」

 

 

 ――なあ、航。

 お前、本当は知ってたのか?

 

 なにもかも。

 

 


 椅子から立ち上がり、診察室のドアを乱暴に開けて中に入った。
 診察台の上には血が通っているとは思えないほど白い顔をした航が横たわっていて、その左腕には点滴の注射針が刺さっている。そして航が着ていた白いシャツの襟元には血の跡がはっきりと残っていて、海老原はその襟元を掴み、顔同士が触れ合うぐらいまで勢いよく引き寄せた。

「ふざけんなよ、航…お前、馬鹿の癖に、2年も俺のこと騙しやがったのか?分かってて、俺が作った朝飯も弁当も夕飯も食い続けたっていうのか?」

「おい、君!?」

「どけ!」

 海老原を追って診察室に入ってきた医師が海老原を航から引き離そうとしたが、それを物凄い力で振り切って海老原は尚も言葉を紡いだ。

「…ざ、けんなよ、航……ふざけんな!」

 

「お前、俺が…俺が!お前のことを誰より憎んでたって知ってたっていうのかよ!?」

 

 あんなに優しい声で、あんなに優しい貌をして、

 俺を。

  

「―――ッ」

 海音と一緒に頭の奥から聴こえてきた声に、海老原は息を呑んだ。
 あの、どこまでも、どこを辿っても優しさしか感じられないような、何もかも。

 そうだ、こいつは、俺を。
 俺のことを。



 憎まれていることを、知っていてさえ。

 

 

“――あいしてるよ、海老原”

 

 

 愛した。


 愛して、いたんだ。

 

 

 



 掴んでいた襟元から手を離し、海老原は呆然と航を見下ろした。
 そこにあるのは、生きていることが危ういような、青白い顔。
 そして、未だに開かれようとはしない双眸に、海老原は今更のように思った。

 

 



 いつか、そう遠くない日に、

 二度と、この双眸が開かれることはなくなるのだと。

 

 


  



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