どすんと背中から落ちる感覚に、世良は襲ってくるだろう痛みを覚悟して目を瞑った。だが、予想に反して落ちた先の背中には何の痛みも襲っては来ない。
 それもそのはず、落ちた先はやわらかな寝台の上だった。

「痛くないだろ?」

 真上から聞こえてきた声に、世良は一度ぱちくりと瞬きをして、そしてコクリと小さく頷く。だが、頷いたところで、一体さっきのは何だったんだろうかと、世良はおそるおそる浬の袖を引っ張った。

「ん?何だ?ああ、ちょっと待て」

 また、どこからともなく半紙と小筆が現れる。それを浬に渡され、世良は小さく辞儀をすると、その半紙に筆を乗せた。

“先ほどは何があったのですか?私が長老さまたちに名指しされていたように思ったのですが”

 そう書いて浬に向けると、浬はいたくバツの悪そうな顔をしてぼりぼりと頭をかいた。顔の割に乱暴な動作をよくする方だと思いながら、世良は浬の答えを待つ。だが、そんな世良に浬はさらに困ったような表情になって、そして、「あーーー」と言って頭を抱えた。
 それに驚いたのは世良だ。
 何か自分は聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと思い、急いで半紙に“申し訳ありません。さきほどの文は忘れてください”と書いて世良に見せる。

「…違う。お前は悪くねえよ」

 ハアとため息をつき、浬は伏せていた顔を世良に向ける。だが、世良に向けたその顔はひどく苦しそうに見えて、世良は浬を安心させようと、また前のように静かに微笑んだ。
 その顔に、浬はまたもや目を見開く。すると、突然浬はぎゅうと世良を抱きしめてきた。
 そういえば、まだ浬は14の少年だ。己は男の割には細い方ではあるが、大の男を抱えて腕は大丈夫なのだろうかと世良は検討違いの心配をする。時空さえ超えることのできる浬には、重力の扱いなど箸を扱うのと同じぐらい簡単だというのに。

「お前、俺の伴侶になった」

 が、そこに突然聞こえてきた台詞に、世良は一瞬頭の中が空っぽになった。

「これから、お前は王妃だ」

 だが、現実に戻ってこざるを得ないような台詞を浬が言って、世良は浬が言った台詞をもう一度自分の中で反芻する。そして反芻して知った事実に、世良はそのまま呼吸が止まるかと思った。

「どうしても、お前が欲しくて。それで、お前に真名言ったら、お前俺の真名言えるんだ。すげえ嬉しかった」

 真名。
 もしかしたら、あの、言葉のようで言葉でなかったあれは、浬の真の名前だったのかと、世良は自分が何ともなしに象ったものの甚大さに目の前が遠くなる。
 と、ぐいと体を離されたかと思うと、そのまま寝台に押し倒される。その現実から逃れようと世良が顔を捩ろうとすると、浬は片手で世良の顎をぐいと掴んだ。

「俺から逃げるのは、絶対に許さない」

 ぎりぎりと痛みを伴うほど強い力で世良の左腕を掴みながら、浬は世良を睨み付ける。その怜悧な双眸は、浬が、気に入らぬ者は即座に殺す、殺戮の王子と呼ばれる所以なのだろう。

 けれど。
 けれどと、世良は思うのだ。
 この乱暴で不遜な王子が、とてもやさしいことを、世良は知っているから。
 今浬が世良に向けている双眸は確かに怖いけれど、でも、どこか痛そうにも辛そうにも見えるから。
 だから。

“だいじょうぶ”

 そう口で言葉を象って、そして、世良は淡く微笑んだ。
 さっき逃げようとしたのだって、浬が嫌だったわけではないのだ。ただ、あまりに色々なことが身の上に降りかかりすぎて、己の心臓が破裂しそうでどうしようもなかっただけで。

“にげない、から”

 ふわりと、そう言って笑って、世良はおそるおそる浬の綺麗な銀髪に手を伸ばした。
 そしてやわらかく浬の頭を撫ぜる。その絹糸のような感触に、世良は何故か己が屋敷に来たばかりのことを思い出した。
 話すことのできない世良に、やはり屋敷の人間は冷たくて、そのことが悲しくて悔しくて世良が泣いていたとき、箕麻はいつもやさしく世良の頭を撫でてくれた。箕麻の手は、最初のときと変わらずいつもやさしくてあたたかくて、その手に世良は何度救われたか知れない。
 そして今の浬は、何故かあのときの自分と似ているように思えたのだ。
 話すこともできず、味方も一人もおらず、世の中のすべてが信じられなかったあの頃の自分と、どうしようもなく重なるように見えたのだ。

「―――っ世良!世良!」

 そう言って、今にも泣きそうな顔で世良の胸に抱きついてきた浬の頭を、世良はやさしく抱え込んで、そうして繰り返し繰り返し撫ぜてやる。
 ああそうだ。この王子は、たとえどれほどの力をその身に潜めていたとしても、それでも、己より4も下の少年なのだ。

“だいじょうぶ、だいじょうぶ”

 声にならない声で、世良は何度もその言葉を唇で象る。
 世良の胸に顔を伏せている浬にそれが見えるはずはないのに、そう言うたびに、浬はさらにきつく世良の体を抱きしめているように思えた。

 

 気がつくと、窓の外が暗闇に染まっていた。
 どうやらいつの間にか寝入っていたらしいと、世良は寝台から体を起こそうとしたが、叶わなかった。

「気持ちよさそーに寝てた」

 世良の体に覆いかぶさり、胸の上に顔を乗せたまま浬はそう言って世良の額にかかっていた髪をひどく穏やかな仕草ではらう。
 しかし、少年とは言え、世良より浬は背も大きいし目方も多いだろう。にも関わらずまったく胸が苦しくないのは、浬が何か力を使ってくれているせいなのだろうか。

「お前さ、俺の前以外でもう笑うなよ」

 すると、いきなり目の前の浬がそんなことを言い出して、世良は目を丸くする。一体何のことだと言わんばかりの目だった。

「だーかーらー。お前、話せないから代わりに笑ってるんだろ?あれ、もう俺以外にやるな」

 どうして?と世良が目で問う。それに浬はあーー!と叫んだかと思うと自分の髪をわしゃわしゃとかき混ぜ、それから諦めたように世良の胸に顔を突っ伏した。その動作があまりに幼く年相応に見えて、世良はつい小さく笑ってしまう。すると浬がどこか拗ねたような表情で世良を睨んできて、その視線すら可愛いと思える己は馬鹿かもしれないと世良は思った。
 だが、突然何かに口を塞がれて、世良はそれ以上何も考えることができなくなった。

「―――」

 ああ、浬に口付けられていると気づいたのは、浬が世良の口に舌を差し込んできたときだ。少年とは思えぬような舌の動きに世良は簡単に息を上げ、その様に浬はひどく満足しているようだった。

「抱くぞ」

「……っ」

「大丈夫だ。痛くしないし、気持ちよくしてやるから」

 そんなの信じられないと言う意味を込めて世良が浬を恨みがましく見つめると、浬は声をあげて笑った。

「お前の考えてること、声に出さなくても目で分かる。心配するな、勃たなかったから入れたことはねえけど、それ以外のことはあらかたやり尽くしたから」

 顔と年に似合わず中年親父のようなことを言うと思いながらも、世良は思わず小さく吹き出す。その様に浬は若干気分を害したようだったが、まあお前なら別にいいやと呟いて、そしてもう一度、世良にやわらかく口づけた。
 そのあまりにやさしいくちづけに、もしかしたら、箕麻の手よりもあたたかくてやさしいものを、己は見つけられたのかもしれないと世良は思う。

 そしてそれはきっと、いつまでも己を幸せにするだろうと。

 いつまでも、いつまでも。

 

 

 

                                                   End.

 



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