今から6年前、世良がまだ12の頃だ。そのころ、世良はこの屋敷ではなく、両親とともに国の外れにある村の小さな家で暮らしていた。
 あまり裕福と言える生活ではなかったが、世良の両親は小さな薬屋を営んでいて、世良も父親に教えを請いながら少しずつ薬の知識を得、父親の見よう見真似で作った薬を母親に褒められたりして、穏やかで幸せといえる生活をしていた。
 それが一変したのは、世良が12になって10日目の夜。町外れの民家ばかりを狙う強盗に襲われてからだ。父母を殺され、世良も強盗に喉を斬りつけられて、一命は取り留めたものの声を失った。
 そして、父母を失い、声も失った世良にはもはや何も残されたものはなくて、もうこのまま死んでしまおうかと思っていたときに、ここの屋敷の使用人として雇ってもらえることになったのだ。
 何でも、屋敷の使用人頭が父の薬を愛用していたとかで、残された世良を不憫に思い、どうにか取り成してくれたらしい。
 家まで迎えに来てくれたその使用人頭――箕麻(みあさ)は、世良の声の出ないことを知ってひどく嘆き、そして世良の頭をやさしく撫ぜてくれた。


 あの手の泣きたくなるようなあたたかさを、世良は今でも鮮明に思い出せる。

 本当に、本当にどこまでもあたたかくて、やさしかったと。

 

「…お、前、声出ないのか?」

 驚いているらしい浬に、世良は困ったように小さく笑って、そしてコクリと小さく頷く。一応、この屋敷に入るときに浬には会ったはずなのだが、まだ浬が8つのときだ、覚えていないのが当たり前かもしれない。

「…いつからだ?」

「……」

「…悪い。ああ、ちょっと待て」

 そう言った途端、どこからともなく浬の手に何枚かの半紙と小筆が現れる。その事実に世良は思わず呆気に取られていたが、そんな世良のことなど意に介さず、浬はその半紙と小筆を世良の前に突き出した。

「これに書け」

 幾分動揺してはいたが、浬の言葉に世良は小さく頷き、渡された小筆で半紙におそるおそる“12のときからです”と書いた。

「12?お前屋敷に来たのいつだ?」

“12になってすぐにこうなって、お屋敷に来たのは12と半年目です”

「そうか…悪かったな、さっき。でもしゃべれねえならしゃべれねえって言え……って馬鹿か俺は……本当、悪い」

 その態度に、世良は内心ひどく驚いた。人に頭を下げさせることはあっても、下げたことなどないだろう浬が、こうしてただの下僕でしかない己に謝罪をしてくれているという事実に、世良の心はあたたかくなる。
 ああ、どんなに神の子と言われ鬼の子と言われ恐れられていても、やはりこの人も人間なのだと。

“ありがとうございます。それに、申し訳ありません”

「…は?なんだそれ」

 半紙に書かれた世良の文に、浬は理解できないとでもいうような視線を世良に向けた。その視線すら、世良には浬の優しさに思えて、胸の中がまたあたたかくなる。

“私が話せないのは、私のせいです。でも、浬さまは、ご自分を責めていらっしゃるから。だから、申し訳ないと”

「…じゃあありがとうってのは」

 そう問われて、世良はそれまで淀みなく動かしていた手を止める。だが、浬が少年らしいまっすぐな目で世良を見つめるので、その目に動かされるように世良は半紙に墨を乗せた。

“やさしくしてくれて、ありがとうございます”

 そして、ゆうるりと、世良は浬に微笑み、静かに頭を下げた。

 

 しばらくして頭を上げると、浬は目を見開いたまま世良を見ていた。
 いや、見ているというか凝視に近い。天上の青より美しいと評される浬の蒼の双眸に見つめられて世良はこの上なく動揺していたが、常であれば話すことさえ憚られる相手の視線から逃げるわけにもいかず、先にしたように世良はもう一度浬に微笑みかけた。
 浬が、どこか切羽詰まっているような目をしていたからかもしれない。話すことのできない世良が相手を落ち着かせたり、和ませたりするには、こうして穏やかに笑いかけるしかなかったから。
 だが、世良の笑みに浬はさらに大きく目を見開いて、世良がそんな浬に一体どうすればいいだろうと思っていると、突然浬に「お前、名は」と問われた。

“世良です”

 と半紙に書き、それを浬の方へと向けると、浬は「世良」と声に出す。少年特有の高くもなく低くもない綺麗な声が己の名前を象ったことが、世良にはとても幸せなことのように思えた。

「         」

 と、突然言葉のようで、だがけして言葉ではない何かを耳元で囁かれ、世良は心の中で首を傾げる。すると、浬が「声…いや、口で象れ」と言うので、世良は、言われるがままに囁かれた言葉を唇で象った。

「         」

 象った途端、体の中が一瞬自分のものではなくなったような、とても奇妙な感覚がしたが、あまりに一瞬のことで世良はその感覚をもう一度呼び起こすことはできなかった。
 というより、言い終えると浬がひどく嬉しそうな表情を浮かべたので、それどころではなかったのだ。浬がそのような表情をしたことなど、世良は今まで一度も見たことがなかったのだから。
 ――実は、今浬が口にした言葉は、通常の人間であれば何度聞いてもそれを言葉として象ることはできないものなのだ。それを、世良は何故か一度で象れた。
 だが、世良はその事実を知らない。なので、どうしてそんな表情をするのだろうと不思議に思っていると、不意に、つい少し前に感じたあの引っ張られるような感覚と、視界の歪みが世良を襲った。

 今度は前よりもその感覚が長い。そういえば、あの時は戸の向こうから部屋の中まで飛ばされただけだったと、何故か今になってそんなことを世良は思い出す。そして、とすると今度は違う場所に己の体は飛ばされているのかもしれないと。
 だが、実は今度は世良の体は浬に抱えられていたのだが、「飛ばされる」ことに慣れない世良が、そのことに気づけるはずもなかった。

 そして、今度もまたどこかに落ちた。だが、今度は痛みも何もない。ぼやける視界を何度か瞬きをしてはっきりさせると、目の前には名立たる浬の側近たちがずらりと並んでいた。

「………ッ!?」

 そして、自分の体が浬に抱えられている現実を思い知る。だが、逃げようにもこうも完璧に抱えられてしまっては、もはや世良が自分で逃げ出すことなど不可能だ。残されている道がないわけではないが、それをするには世良は浬にお伺いを立てなければならない。それは、今のこの状況ではやはりできそうにもなかった。

「おい、お前らが延々俺に見つけろ見つけろ繰り返してた伴侶、こいつに決めたぞ」

「…ハ!?な、な、なんですと!?」

「ど、どういうことです浬さま!!その者は使用人ではございませんか!?」

「そっ、そうです!そんな下賤の者に浬さまの伴侶など務まるわけが…」

「フン。お前らが何と言おうともう決まったことだ。こいつは俺の真名を言葉にできた」

「な……っっ」

 それまで激昂していた側近や家臣たちが、浬のその言葉に一気に顔の色を無くす。それもそのはず、家臣の誰もが己の娘や息子を浬に宛がっては、真名を口にできないと泣き帰ってきたのだから。
 そして、王の真名を象れる者が王の伴侶となるということは、この国のさだめなのだから。

「…承知いたしました。では、伴侶の誕生、家臣一同心よりお喜び申し上げます」

 それまで黙っていた長老が、厳かにそう言って浬に頭を垂れたかと思うと、他の家臣も慌てたように口々に似たようなことを言い頭を下げる。その様子を浬は白けた気分で見ていたが、腕の中に、何が起こっているのか分かっていないだろう人間がいることを思い出して、そのまま「飛んだ」。

 

 




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